・・・むかしの佳き人たちの恋物語、あるいは、とくべつに楽しかった御旅行の追憶、さては、先生御自身のきよらかなるロマンス、等々、病床の高橋君に書き送る形式にて、四枚、月末までにおねがい申しあげます。大阪サロン編輯部、春田一男。太宰治様。」「君の・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ スワは追憶からさめて、不審げに眼をぱちぱちさせた。滝がささやくのである。八郎やあ、三郎やあ、八郎やあ。 父親が絶壁の紅い蔦の葉を掻きわけながら出て来た。「スワ、なんぼ売れた」 スワは答えなかった。しぶきにぬれてきらきら光っ・・・ 太宰治 「魚服記」
酒の追憶とは言っても、酒が追憶するという意味ではない。酒についての追憶、もしくは、酒についての追憶ならびに、その追憶を中心にしたもろもろの過去の私の生活形態についての追憶、とでもいったような意味なのであるが、それでは、題名・・・ 太宰治 「酒の追憶」
・・・けれど悲嘆や、追憶や、空想や、そんなものはどうでもよい。疼痛、疼痛、その絶大な力と戦わねばならぬ。 潮のように押し寄せる。暴風のように荒れわたる。脚を固い板の上に立てて倒して、体を右に左にもがいた。「苦しい……」と思わず知らず叫んだ。・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・そのなつかしさの中にはおそらく自分の子供の時分のこうした体験の追憶が無意識に活動していたものと思われる。またことしの初夏には松坂屋の展覧会で昔の手織り縞のコレクションを見て同じようななつかしさを感じた。もしできれば次に出版するはずの随筆集の・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・三銭切手二枚か三枚貼った恐ろしく重い分厚の手紙を読んでみると、それには夏目先生の幼少な頃の追憶が実に詳しく事細かに書き連ねてあるのであった。それによると、S先生は子供の頃夏目先生の近所に住まっていていわゆるいたずら仲間であったらしく、その当・・・ 寺田寅彦 「埋もれた漱石伝記資料」
・・・単に「追憶」とでもすべきであろう。 自分の学生時代と今とでは、第一時代が変っている。その上に自分の通って来た道は自分勝手の道であって、他人にすすめるような道とも思われない。しかしともかくも三十年の学究生活の霞を透して顧みた昔の学生生活の・・・ 寺田寅彦 「科学に志す人へ」
日常の環境の中であまりにわれわれに近く親しいために、かえってその存在の価値を意識しなかったようなものが、ひとたびその環境を離れ見失った時になって、最も強くわれわれの追憶を刺戟することがしばしばある。それで郷里に居た時には少・・・ 寺田寅彦 「郷土的味覚」
・・・ 悼ましい追憶に生きている爺さんの濁ったような目にはまだ興奮の色があった。「まるで活動写真みたようなお話ね。」上さんが、奥の間で、子供を寝かしつけていながら言い出した。「へえ……これア飛んだ長話をしまして……。」やがて爺さんは立・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・幾年ぶりかで見る道太を懐かしがって、同じ学校友だちで、夭折したその一粒種の子供の写真などを持ってきて、二階に寝ころんでいる道太に見せたりして、道太の家と自分の家の古い姻戚関係などに遡って、懐かしい昔の追憶を繰り返していた。「和田さんの家・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫