・・・ いつも変らぬことながら、お通は追懐の涙を灌ぎ、花を手向けて香を燻じ、いますが如く斉眉きて一時余も物語りて、帰宅の道は暗うなりぬ。 急足に黒壁さして立戻る、十間ばかり間を置きて、背後よりぬき足さし足、密に歩を運ぶはかの乞食僧なり。渠・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・(この咄については『明星』掲載当時或る知人から誤解であると手柬 若い人たちの中には鴎外が晩年考証に没頭して純文芸に遠ざかったのを惜んで、鴎外を追懐するにつけて再び文芸に帰る期が失われたのを遺憾とするものがあった。 が、私の思うま・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・と喪くなった醜い犬を追懐して惻々の情に堪えないようだった。 犬よりも最う一倍酷愛していたのは猫であった。皆川町時代から飯田町、東片町の家に出入したものは誰でも知ってる、白いムクムクと肥った大きな牝猫が、いつでも二葉亭の膝の廻りを離れなか・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ 真面目に自己というものを考える時は常に色彩について、嗅覚に付て、孤独を悲しむ感情に付て、サベージの血脈を伝えたる本能に付て、最も強烈であり、鮮かであった少年時代が追懐せられる。故に、習慣に累せられず、知識に妨げられずに、純鮮なる少年時・・・ 小川未明 「感覚の回生」
・・・ 雲に思いを寄せ、追懐と讃美を恣にしたものは、いくばくの放浪者や、ロマンチストだけではなかった。シェレーや、ボードレールや、レヴィートフのような、詩人だけではなかったのである。 さらに、私は、雲に対して、驚異を感ずるのだった。いかに・・・ 小川未明 「常に自然は語る」
・・・ 眼鏡越しに是方を眺める青木の眼付の若々しさ、往時を可懐しがる布施の容貌に顕れた真実――いずれも原の身にとっては追懐の種であった。相川や、乙骨や、高瀬や、それから永田なぞと、よく往ったり来たりした時代は、最早遠く過去になったような気がす・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・一時とだえた追懐の情が流るるように漲ってきた。 母の顔、若い妻の顔、弟の顔、女の顔が走馬燈のごとく旋回する。欅の樹で囲まれた村の旧家、団欒せる平和な家庭、続いてその身が東京に修業に行ったおりの若々しさが憶い出される。神楽坂の夜の賑いが眼・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・不思議な事には追懐の国におけるこれらの家畜は人間と少しも変わらないものになってしまっている。口もきけば物もいう。こちらの心もそのままによく通ずる。そうして死んだ人間の追憶には美しさの中にも何かしら多少の苦みを伴なわない事はまれであるのに、こ・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・、そんなことをいっては皆に笑われながら、三十余年前の手製のボールのカーンとくる手ごたえを追懐しているであろう。「白熱せる神宮競技」。「白熱せる万国工業会議」。こういうトピックスで逆毛立った高速度ジャズトーキーの世の中に、彼は一八五〇年代・・・ 寺田寅彦 「野球時代」
・・・ そのほかの知友の中でも、中学時代からの交遊の跡を追懐した熱情のこもった弔詞を寄せられた人や、また亮が読むべくしてついに読む事のできなかった倉田氏の著書の巻頭に懇篤な追悼文を題して遺族に贈られた人もあった。 私はここでそういう人々の・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
出典:青空文庫