・・・ 主人の憤怒はやや薄らいだらしいが、激情が退くと同時に冷透の批評の湧く余地が生じたか、「そちが身を捨てましても、と云って、ホホホ、何とするつもりかえ。」と云って冷笑すると、女は激して、「イエ、ほんとに身を捨てましても」と・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・秋の夕日を受けつ潜りつ、甲の浪鎧の浪が寄せては崩れ、崩れては退く。退くときは壁の上櫓の上より、傾く日を海の底へ震い落す程の鬨を作る。寄するときは甲の浪、鎧の浪の中より、吹き捲くる大風の息の根を一時にとめるべき声を起す。退く浪と寄する浪の間に・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・その結果、半途にして学校を退くようになった。当時思うよう、学問は必ずしも独学にて成し遂げられないことはあるまい、むしろ学校の羈絆を脱して自由に読書するに如くはないと。終日家居して読書した。然るに未だ一年をも経ない中に、眼を疾んで医師から読書・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・今日の有様を以て事の本位と定め、これより進むものを積極となし、これより退くものを消極となし、余輩をしてその積極を望ましむれば期するところ左のごとし。 すなわち今の事態を維持して、門閥の妄想を払い、上士は下士に対して恰も格式りきみの長座を・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・けだし走者は本基より第一基に向って走る場合においては単に進むべくしてあえて退くべからざる位置にあるをもって球のその身に触るるを待たずして除外となることかくのごとき者あり。第二基人第三基人の役目は攫者等より投げたる球を攫み走者の身に触れしめん・・・ 正岡子規 「ベースボール」
・・・すると店にはうすぐろいとのさまがえるが、のっそりとすわって退くつそうにひとりでべろべろ舌を出して遊んでいましたが、みんなの来たのを見て途方もないいい声で云いました。「へい、いらっしゃい。みなさん。一寸おやすみなさい。」「なんですか。・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・ それですから、深い霧がこめて、空も山も向うの野原もなんにも見えず退くつな日は、稜のある石どもは、みんな、ベゴ石をからかって遊びました。「ベゴさん。今日は。おなかの痛いのは、なおったかい。」「ありがとう。僕は、おなかが痛くなかっ・・・ 宮沢賢治 「気のいい火山弾」
・・・広い、人気のない渚の砂は、浪が打ち寄せては退くごとに滑らかに濡れて夕焼に染った。「もう大島見えないわね」「――雪模様だな、少し」 風がやはり吹いた。海が次第に重い銅色になって来た。光りの消えた砂浜を小急ぎに、父を真中にやって来る・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
・・・ この頃では、バスの車掌もひところのように赤ん坊が生れたからと云って退くひとがなくなって来た。堂々子供をつれて職場にねばるようになって来た。 ××終点の引かえし線の安全地帯に立っていたら、すぐうしろで、「ストライキ見に来たよ・・・ 宮本百合子 「電車の見えない電車通り」
・・・舞台には小姓一人のこって、法王の出て行った方をしばらく見つめて、やがて深い溜息をついてから反対の戸口――下手からひきずる様な足つきをして退く。幕 第二幕 第一場 場所 ヘンリ・・・ 宮本百合子 「胚胎(二幕四場)」
出典:青空文庫