・・・そのあとに私が行って、そうして四、五時間そこで仕事をして、女のひとが銀行から帰って来る前に退出する。 愛人とか何とか、そんなものでは無い。私がそのひとのお母さんを知っていて、そうしてそのお母さんは、或る事情で、その娘さんとわかれわかれに・・・ 太宰治 「朝」
・・・ 母は、顔を伏せて退出した。 夕方まで、家の中には、重苦しい沈黙が続いた。電話も、あれっきりかかって来ない。節子には、それがかえって不安であった。堪えかねて、母に言った。「お母さん!」小さい声だったけれど、その呼び掛けは母の胸を・・・ 太宰治 「花火」
・・・会場からまた拍手に送られて退出し、薄暗い校長室へ行き、主任の先生と暫く話をして、紅白の水引で綺麗に結ばれた紙包をいただき、校門を出ました。門の傍では、五、六人の生徒たちがぼんやり佇んでいました。「海を見に行こう。」と私のほうから言葉を掛・・・ 太宰治 「みみずく通信」
・・・ 午後三時過ぎ、退出時刻が近くなると、家のことを思う。妻のことを思う。つまらんな、年を老ってしまったとつくづく慨嘆する。若い青年時代をくだらなく過ごして、今になって後悔したとてなんの役にたつ、ほんとうにつまらんなアと繰り返す。若い時に、・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・慶祝の意を表わしたもので、参会の諸員退出の時にこれを奏すと説明書にあったが、そのためか、奏楽中にがたがた席を立つ人が続々出て来た。 近頃にない舒びやかな心持になって門を出たら、長閑な小春の日影がもうかなり西に傾いていた。 ・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 行きたくない劇場に誘い出されて、看たくない演劇を看たり、行きたくない別荘に招待せられて、食べたくない料理をたべさせられた挙句、これに対して謝意を陳べて退出するに至っては、苦痛の上の苦痛である。今の世を見るに、世人は飲食物を初めとして学・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・その人はわたくしの一存では賠償金の多寡は即答する事ができないと云うので、結局はなしはまとまらず、山本さんと僕とは空しく退出した。そして三四日の後、山本さんの手から賠償金数千円を支払うことになった。僕が小石川のはずれまでぺこぺこ頭を下げに行っ・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・夜半青山の御大葬式場から退出しての帰途、その噂をきいて「予半信半疑す」と日記にかかれているそうである。つづいて、鴎外は乃木夫妻の納棺式に臨み、十八日の葬式にも列った。同日の日記に「興津彌五右衛門を艸して中央公論に寄す」とあって、乃木夫妻の死・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・同僚はもうとっくに書類を片附けていて、どやどや退出する。木村は給仕とただ二人になって、ゆっくり書類を戸棚にしまって、食堂へ行って、ゆっくり弁当を食って、それから汗臭い満員の電車に乗った。・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・上々官の拝がすんでから、上の使の三人は上々官をしたがえて退出した。 家康は六人の朝鮮人の後影を見送って、すぐに左右を顧みて言った。「あの縁にいた三人目の男を見知ったものはないか」 側には本多正純を始めとして、十余人の近臣がいた。・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
出典:青空文庫