・・・ところが不可ないことには私にその勇気がなかったので、もう二つの桶をあっちの石垣やこっちの塀かどにぶっつけながら逃げるので、うしろからは益々手をたたいてわらう声がきこえてくる……。 そんな風だから、学校へいってもひとりでこっそりと運動場の・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・二三人は昼間見ておいた西瓜をひっ抱えてすぐ逃げる。他のものは態と太十を起して蚊帳の釣手を切って後から逃げるというのであった。太十は其夜喚んでも容易に返辞がなかった。それ故そういう悪戯さえしなかったならば翌日ただ太十の怒った顔を発見するに過ぎ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・その時今まで激論をしていた親子が、急に喧嘩を忘れて、互に相援けて門外に逃げるところを小説にかく。すると書いた人は無論読む人もなるほどさもありそうだと思う。すなわちこの小説はある地位にある親子の関係を明かにしたと云う点において、作者及び読者の・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ 然し、一体、馴れた坑夫は、そんなに逃げるように慌てて、駈けはしないものだ。慌てて石に躓く事がある事を知っているからだ。 小林は、秋山よりも、もっと熟練工であった。だから、彼とても特別に急ぐような、見っともない事はしない。だが、「少・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・そしてこそこそこそこそ、逃げるようにおもてに出てひとりが三十三本三分三厘強ずつという見当で、一生けん命いい木をさがしましたが、大体もう前々からさがす位さがしてしまっていたのですから、いくらそこらをみんながひょいひょいかけまわっても、夕方まで・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・追われると心付いて、男は洋袴にはまった脚を目まぐるしく動かして逃げる。後から娘は、加速度的に速さを増して追いすがろうとする。―― 二人の後姿が、見えないようになると、何と云う訳なのか、私は、学校の舎監室に逃げ込んだ。そして、声を震わせて・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・そして逃げるように、黙って部屋を出て行った。綾小路の方は振り返ってもみなかったのである。 秀麿の眉間には、注意して見なくては見えない程の皺が寄ったが、それが又注意して見ても見えない程早く消えて、顔の表情は極真面目になっている。「君つまら・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・と腰に弓を張る親父が水鼻を垂らして軍略を皆伝すれば、「あぶなかッたら人の後に隠れてなるたけ早く逃げるがいいよ」と兜の緒を緊めてくれる母親が涙を噛み交ぜて忠告する。ても耳の底に残るように懐かしい声、目の奥に止まるほどに眤しい顔をば「さようなら・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・が、突然、「知れたらまた逃げるだけじゃ。」と呟いた。 五 宿場の場庭へ、母親に手を曳かれた男の子が指を銜えて這入って来た。「お母ア、馬々。」「ああ、馬々。」男の子は母親から手を振り切ると、厩の方へ馳けて来・・・ 横光利一 「蠅」
・・・受ける態度と逃げる態度と。生きる人と死ぬ人と。これがまず人間の尊卑をきめるだろう。五 生の苦患に対する態度については、それが道徳的に大きい意義を持てば持つほど、より大きい危険がある。 病苦は号泣や哀訴によってごまかすこと・・・ 和辻哲郎 「ベエトォフェンの面」
出典:青空文庫