・・・覗いて見ると底の見えない絶壁を、逆さになった豚が行列して落ちて行く。自分がこのくらい多くの豚を谷へ落したかと思うと、庄太郎は我ながら怖くなった。けれども豚は続々くる。黒雲に足が生えて、青草を踏み分けるような勢いで無尽蔵に鼻を鳴らしてくる。・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・あるいは立派に建設されないうちに地震で倒された未成市街の廃墟のようなものです。 しかしながら自己本位というその時得た私の考は依然としてつづいています。否年を経るに従ってだんだん強くなります。著作的事業としては、失敗に終りましたけれども、・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・私の体は投げ倒された。板壁は断末魔の胸のように震え戦いた。その間にも私は、寸刻も早く看守が来て、――なぜ乱暴するか――と咎めるのを待った。が、誰も来なかった。 私はヘトヘトになって板壁を蹴っている時に、房と房との天井際の板壁の間に、嵌め・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・例えば隣家は頻りに繁昌して財産も豊なるに、我家は貧乏の上に不仕合のみ打続く、羨ましきことなり憎らしきことなり、隣翁が何々の方角に土蔵を建てゝ鬼瓦を上げたるは我家を睨み倒さんとするの意なり、彼の土蔵が火事に焼けたらば面白からん、否な人の見ぬ間・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・丁度画探しの画のようで横顔がやや逆さになって見えるのは少し風変りの顔だ。再び仰向になって、今度は顔のない方の天井の隅を睨んで居ると、馬鹿に大きな顔が忽然と現れて来る。 かように暗裏の鬼神を画き空中の楼閣を造るは平常の事であるが、ランプの・・・ 正岡子規 「ランプの影」
・・・「それがら、稲も倒さな。」「それから? あとはどうだい。」「家もぶっ壊さな。」「それから? それから? あとはどうだい。」「砂も飛ばさな。」「それから? あとは? それから? あとはどうだい。」「シャッポも飛ばさ・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・「それがら、ラ、ラ、電信ばしらも倒さな。」「それから? それから? それから?」「それがら屋根もとばさな。」「アアハハハ、屋根は家のうちだい。どうだいまだあるかい。それから、それから?」「それだがら、ララ、それだからラン・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・落葉のふきよせた水たまりに、逆さにその空がうつっている。――夕方、東京で云えば日本橋のようなクズニェツキー・モーストの安全地帯で電車を待った。 チン、チン、チン。 ベルを鳴らして疾走して来る電車はどれも満員だ。引け時だからたまらない・・・ 宮本百合子 「「鎌と鎚」工場の文学研究会」
・・・葛と銀杏の小鉢が蹴り倒された。勘次は飛び起きた。そして、裏庭を突き切って墓場の方へ馳け出すと、秋三は胸を拡げてその後から追っ馳けた。二 本堂の若者達は二人の姿が見えなくなると、彼らの争いの原因について語合いながらまた乱れた配・・・ 横光利一 「南北」
・・・それに代わるものは欅の大樹で、戦争以来大分伐り倒されたが、それでもまだ半分ぐらいは残っている。この欅が、少し風のある日には、高い梢の方で一種独特の響きを立てる。しかしそれは松風の音とは大分違う。それをどう言い現わしたらいいか、ちょっと困るが・・・ 和辻哲郎 「松風の音」
出典:青空文庫