・・・ところが、いつもそんな嫁のわがままを通すはずのないお定が、なんの弱みがあってか強い反対もしなかった。 赤児はお光と名づけ、もう乳ばなれするころだったゆえ、乳母の心配もいらず、自分の手一つで育てて四つになった夏、ちょうど江戸の黒船さわぎの・・・ 織田作之助 「螢」
・・・次はまた、手を持ったというくらいの軽さで通す。 男の児は小さい癖にどうかすると大人の――それも木挽きとか石工とかの恰好そっくりに見えることのある児で、今もなにか鼻唄でも歌いながらやっているように見える。そしていかにも得意気であった。・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・めまぐるしい文学上の主張や流行の変化を田舎にいて一々知り得る由もないが、わけてもこの頃のあわただしさは、東京にいても、二三カ月仕事に打ちこんで新刊の雑誌新聞に目を通すひまなしにいようものなら、取り残されて分らなくなるのではあるまいか。 ・・・ 黒島伝治 「田舎から東京を見る」
・・・異論のあるのに無理を通すようなことは秀吉は敢てせぬところである。しかも当時の博識で、人の尊む植通の言であったから、秀吉は徳善院玄以に命じて、九条近衛両家の議を大徳寺に聞かせた。両家は各固くその議を執ったが、植通の言の方が根拠があって強かった・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・屈託無げにはしているが福々爺の方は法体同様の大きな艶々した前兀頭の中で何か考えているのだろう、にこやかには繕っているが、其眼はジッと女の下げている頭を射透すように見守っている。女は自分の申出たことに何の手答のある言葉も無いのに堪えかねたか、・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・今は親しい客でも有る時に通す特別な応接間に用いている。そこだけは、西洋風にテーブルを置いて、安楽椅子に腰掛けるようにしてある。大塚さんはその一つに腰掛けて見た。 可傷しい記憶の残っているのも、その部屋だ。若く美しい妻を置いて、独りで寂し・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・と、針に糸を通す。 自分は素直に立って、独りで玄関へ下りたが、何だか張合が抜けたようでしばらくぼんやりと敷居に立っている。 と、「兄さん」と藤さんが出てくる。「あそこに水天宮さまが見えてるでしょう。あそこの浜辺に綺麗な貝殻が・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・七本の多羅樹と鉄の猪を射貫き、めでたく耶輸陀羅姫をお妃にお迎えなさったとかいう事も聞いている。七本の多羅樹と鉄の猪を射透すとは、まことに驚くべきお力である。まったく、それだからこそ、弟子たちも心服したのだ。腕力の強い奴には、どこやら落ちつき・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・しかしこの部屋はいちばん風がよく吹き通すので、みんながここに集まっていた。子供等は寝転んで本を見ているのもあれば、絵具箱を出して絵を描いているのもあった。老人は襖に背をもたせて御伽噺の本を眼鏡でたどっていた。私は裏庭を左にした壁のオルガンの・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・本当の意味の書家が例えば十の字を書く時に始め一を左から右へ引き通す際に後から来るの事など考えるだろうか、それを考えれば書の魂は抜けはしまいか。たとえ胴中を枝の貫通した鳥の絵は富豪の床の間の掛物として工合が悪いかもしれぬが、そういう事を無視し・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
出典:青空文庫