・・・ 戸沢は台所を通り抜ける時も、やはりにやにや笑っていた。 医者が雨の中を帰った後、慎太郎は父を店に残して、急ぎ足に茶の間へ引き返した。茶の間には今度は叔母の側に、洋一が巻煙草を啣えていた。「眠いだろう?」 慎太郎はしゃがむよ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・……「……姐さん、ここの前を右へ出て、大な絵はがき屋だの、小料理屋だの、賑な処を通り抜けると、旧街道のようで、町家の揃った処がある。あれはどこへ行く道だね。」「それはね、旦那さん、那谷から片山津の方へ行く道だよ。」「そうか――そ・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・カランカランという踏切の音を背中に聴きながら、寝しずまった住宅地を通り抜けると、もはや門燈のにぶい光もなく道はいきなりずり落ちたような暗さでそこに池がある。蛙が真っ暗な鳴声を立てている。池の左手には黒ぐろとした校舎がやもりのような背中を見せ・・・ 織田作之助 「道」
・・・馬は通り抜ける。蜜柑を積んでいる。 と、「まあ誰ぞいの」と機を織っていた女が甲走った声を立てる。藁の男が入口に立ち塞って、自分を見て笑いながら、じりじりとあとしざりをして、背中の藁を中へ押しこめているのである。「暗いわいの」と女・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ただ自分が何かの問題にまともにぶつかって、そのほうの必要からこれらの知識を通り抜ける時に、すべての空虚な知識が体験の糸に貫ぬかれて始めて生きて連結して来る。これと同じようなものだと思う。 農科の実科の学生が二三人乗っていた。みんな大きな・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・ 馬車が古い昔の町を通り抜けると馬鈴薯畑の中の大道を走って行った。ところどころに孤立したイタリア松と白く輝く家屋の壁とは強い特徴のある取り合わせであった。 ホテル・ドゥ・ヴェシューヴと看板をかけた旗亭が見える。もうそこがポンペイの入・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・を潜った。おなじみの西郷銅像と彰義隊の碑も現に自分の頭の上何十尺の土層の頂上にあると思うと妙な気がする。 市中の地下鉄と違って線路が無暗に彎曲しているようである。この「上野の山の腹わた」を通り抜けると、ぱっと世界が明るくなる。山のどん底・・・ 寺田寅彦 「猫の穴掘り」
・・・完全に裸体で豊満な肉体をもった黒髪の女が腕を組んだまま腰を振り振り舞台の上手から下手へ一直線に脇目もふらず通り抜けるというものすごい一景もあった。 要するにレビューというものはただ雑然とした印象系列の偶然な連続としか思われなかった。ワグ・・・ 寺田寅彦 「マーカス・ショーとレビュー式教育」
・・・女は領を延ばして盾に描ける模様を確と見分けようとする体であったが、かの騎士は何の会釈もなくこの鉄鏡を突き破って通り抜ける勢で、いよいよ目の前に近づいた時、女は思わず梭を抛げて、鏡に向って高くランスロットと叫んだ。ランスロットは兜の廂の下より・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・余が通り抜ける極楽水の貧民は打てども蘇み返る景色なきまでに静かである。――実際死んでいるのだろう。ポツリポツリと雨はようやく濃かになる。傘を持って来なかった、ことによると帰るまでにはずぶ濡になるわいと舌打をしながら空を仰ぐ。雨は闇の底から蕭・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
出典:青空文庫