・・・ シャベルを持っている兵卒は逡巡した。まだ老人は生きて、はねまわっているのだ。「やれツ! かまわぬ。埋めっちまえ!」「ほんとにいゝんですか? ××殿!」 兵卒は、手が慄えて、シャベルを動かすことが出来なかった。彼等は、物訊ね・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・顔赧らめ男らしくなき薄紅葉とかようの場合に小説家が紅葉の恩沢に浴するそれ幾ばく、着たる糸織りの襟を内々直したる初心さ小春俊雄は語呂が悪い蜆川の御厄介にはならぬことだと同伴の男が頓着なく混ぜ返すほどなお逡巡みしたるがたれか知らん異日の治兵衛は・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・思った事と、それを言葉で表現する事との間に、些少の逡巡、駈引きの跡も見えないのです。あなた達は、言葉だけで思想して来たのではないでしょうか。思想の訓練と言葉の訓練とぴったり並走させて勉強して来たのではないでしょうか。口下手の、あるいは悪文の・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・きょうまで、お礼逡巡、欠礼の段、おいかりなさいませぬようお願い申します。玉稿をめぐり、小さい騒ぎが、ございました。太宰先生、私は貴方をあくまでも支持いたします。私とて、同じ季節の青年でございます。いまは、ぶちまけて申しあげます。当雑誌の記者・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・佐伯は私の実行力を疑い、この企画に躊躇していたようであったが、私は、少年の逡巡の様を見て、かえって猛りたち、佐伯の手を引かんばかりにして井の頭の茶店を立ち出で、途中三鷹の私の家に寄って素早く鬚を剃り大いに若がえって、こんどは可成りの額の小遣・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・私ならば、ここに於いて、あの泥靴の不愉快きわまる夢をはじめ、相ついで私の一身上に起る数々の突飛の現象をも思い合せ、しかも、いま、この眼で奇怪の魔性のものを、たしかに見とどけてしまったからには、もはや、逡巡のときでは無い、さては此の家に何か異・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・、外目にはともかくも相当なコントリビューションにはなるであろうと思われるものが些細な欠点のために落第させられたり、二十年も事務室の金庫に秘蔵されるようでは、先ずよほどの自信家でない限り論文提出について逡巡せざるを得ないであろう。提出を控える・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・嘉納さんに始めて会った時も、そうあなたのように教育者として学生の模範になれというような注文だと、私にはとても勤まりかねるからと逡巡したくらいでした。嘉納さんは上手な人ですから、否そう正直に断わられると、私はますますあなたに来ていただきたくな・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・ 男の側から気持をそういう方向にもってゆく場合が目立ってとらえられていたというのも、云って見れば、暗黙のうちに女のひとの心の中に生じていた結婚に対する遅疑や逡巡が照りかえしたものとしての現れであると云えるところもあろう。時局に際しての女・・・ 宮本百合子 「これから結婚する人の心持」
・・・そして、そのうちに彼は、はたと逡巡する。「これが女性の大集会の毛細管を通じて投げ出される文句の実体である」これでは生物学の講義でも聞いているようだ。何故かくも難しい述語を、百科辞典式に書き並べるのであろうかと歎息する。更に、その人は、業々し・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
出典:青空文庫