・・・「三浦は贅沢な暮しをしているといっても、同年輩の青年のように、新橋とか柳橋とか云う遊里に足を踏み入れる気色もなく、ただ、毎日この新築の書斎に閉じこもって、銀行家と云うよりは若隠居にでもふさわしそうな読書三昧に耽っていたのです。これは勿論・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・維新の革命で江戸の洗練された文化は田舎侍の跋扈するままに荒され、江戸特有の遊里情調もまた根底から破壊されて殺風景なただの人肉市場となってしまった。蓄妾もまた、勝誇った田舎侍が分捕物の一つとして扱ったから、昔の江戸の武家のお部屋や町家の囲女の・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・渠等が幅を利かすは本屋や遊里や一つ仲間の遊民に対する場合だけであって、社会的には袋物屋さん下駄屋さん差配さんたるより外仕方が無かったのである。 斯ういう生活に能く熟している渠等文人は、小説や院本は戯作というような下らぬもので無いという事・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・ 根津の遊里は斯くの如く一時繁栄を極めたが、明治二十一年六月三十日を限りとして取払われ、深川洲崎の埋立地に移転を命ぜられた。娼家の跡は商舗または下宿屋の如きものとなったが、独八幡楼の跡のみ、其の庭園の向ヶ岡の阻崖に面して頗幽邃の趣をなし・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ 吉原の遊里は今年昭和甲戌の秋、公娼廃止の令の出づるを待たず、既に数年前、早く滅亡していたようなものである。その旧習とその情趣とを失えば、この古き名所はあってもないのと同じである。 江戸のむかし、吉原の曲輪がその全盛の面影を留めたの・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・三十幾年のむかし、洲崎の遊里に留連したころ、大門前から堀割に沿うて東の方へ行くとすぐに砂村の海辺に出るのだという事を聞いて、漫歩したことがあったが、今日記憶に残っているのは、蒹葭の唯果も知らず生茂った間から白帆と鴎の飛ぶのを見た景色ばかりで・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・古い例でいえば、徳川末期の武家権力の崩壊期に、経済的実力をもってきた町人階級が、士農工商の封建身分制にたいする反抗として遊里という治外法権地域をつくり、馬琴の文学にたいして、京伝らの文学をもった場合にもこのことが見られました。町人文学と劇、・・・ 宮本百合子 「一九四六年の文壇」
・・・の感覚などのうちに退嬰し、徳川末期に到っては身分制に属しながら実力はそれを凌駕している町人階級の文学としてそこでだけは武士の力がものをいわぬ遊里、花柳界遊蕩の文学が発生したのであった。この種の文学の世界では近松の作品にあっては人間性の悲劇の・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
出典:青空文庫