・・・刻み目の粗い田舎の顔の上へ、車窓をとび過る若葉照りが初夏らしく映った。〔一九二七年八月〕 宮本百合子 「北へ行く」
・・・八畳の 部屋に入り縁に出ようと 机のわきを過る時ちらりと見る お前の姿は何と云う楽しさだろう。私は、十九の恋人のようにそっと眼の隅から、お前を見思い切れずに 再 見なおし終には 牽かれて その前に腰を下し・・・ 宮本百合子 「五月の空」
・・・ 通りすがりに、強い葉巻の匂いを掠めて行く男、私の耳に、きれぎれな語尾の華やかな響だけをのこして過る女達。 印袢纏にゴム長靴を引ずった小僧が、岡持を肩に引かつぎ、鼻唄まじりで私の傍によって来た。どんな面白いものを見ているのか、と云う・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・ったりする午後、 ○池、柳、鶴 ペリカン――毛がぬけて薄赤い肌の色が見える首、 ○ただ一かわの樹木と鉄柵で内幸町の通りと遮断され 木の間から黄色い電車、緑色の水瓜のようなバス、自動車がとび過るのが見ゆ ○プラタナスの下のベン・・・ 宮本百合子 「一九二七年春より」
・・・が、前に行くと同じように、若い娘らしい謹みを現して通り過る。―― 先生は、手を前に垂れて組み、優しいような、厳しいような微笑を湛えながら、一人一人、注意深く、顔、髪、着物と眼を走らせる。――私共は、皆心の裡で、この、朝の出迎えが、何を意・・・ 宮本百合子 「追想」
・・・ 大宮を過ると、東武線の茶色の電車が、走っている汽車に見る見る追いぬかれながら、におのある榛の木の間、田圃のむこうを通った。まだ短い麦畑の霜どけにぬかるみながら、腹がけをした電信工夫が新しい電柱を立てようとしている作業が目を掠める。・・・ 宮本百合子 「東京へ近づく一時間」
・・・ 後の代りがないことは、少くとも、自分には判り過る程解って居た。が、いざと云う時にはどうか成ろう。 正直に云うと此事より、自分にとっては、深い心懸りが他に一つあった。それは、林町と我々、寧ろAと母との間に不調和があり、去年の九月から・・・ 宮本百合子 「二つの家を繋ぐ回想」
・・・その児をみのえが八時過ると寝かしつけなければならなかった。 更紗の小布団の横にみのえもころがって、子供に顔をいじられながら何かお伽噺をしてやった。古風な猿蟹合戦、または浦島太郎。「ね、浦島さん、亀の子へのっかって海へ行ったのよ」・・・ 宮本百合子 「未開な風景」
・・・ ホワイト・チャペル通の交叉点を過ると、街の相貌がだんだん違って来た。家並が低くなった。木造二階家がよろめきながら立っている。往来はひろがり、タクシーなんか一台も通らない。犬もいない。木もない。そして人も少い。太陽だけが頭のテッペン・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
出典:青空文庫