・・・「何をまた数馬は思い違えたのじゃ?」「それはわたくしにもわかり兼ねまする。が、いずれ取るにも足らぬ些細のことだったのでございましょう。――そのほかは何もございませぬ。」 そこにまた短い沈黙があった。「ではどうじゃな、数馬の気・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・するといつか道を間違え、青山斎場の前へ出てしまった。それはかれこれ十年前にあった夏目先生の告別式以来、一度も僕は門の前さえ通ったことのない建物だった。十年前の僕も幸福ではなかった。しかし少くとも平和だった。僕は砂利を敷いた門の中を眺め、「漱・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ですからその晩もお島婆さんは、こう云う手順を違えずに、神を祈下そうとしましたが、お敏は泰さんとの約束を守って、うわべは正気を失ったと見せながら、内心はさらに油断なく、機会さえあれば真しやかに、二人の恋の妨げをするなと、贋の神託を下す心算でい・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・「あの、しかしね、間違えて外の座敷へでも行っていらっしゃりはしないか、気をつけておくれ。」「それはもう、きっと、まだ、方々見させてさえござりまする。」「そうかい、此家は広いから、また迷児にでもなってると悪い、可愛い坊ちゃんなんだ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ただ夏至のはじめの第一日、村の人の寝心にも、疑いなく、時刻も違えず、さらさらと白銀の糸を鳴して湧く。盛夏三伏の頃ともなれば、影沈む緑の梢に、月の浪越すばかりなり。冬至の第一日に至りて、はたと止む、あたかも絃を断つごとし。 周囲に柵を結い・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ そりゃ境遇が違えば、したがって心持ちも違うのが当然じゃと、無造作に解決しておけばそれまでであるけれど、僕らはそれをいま少し深く考えてみたいのだ。いちじるしき境遇の相違は、とうていくまなくあい解することはできないにしても、なるべくは解し・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・予期した事が実現されたようでもあるし、自分の疑心で迎えてU氏の言葉を聞違えたようにも思って、「ホントウですか、」と反問すると、「ホントウとも、ホントウとも、」とU氏は早口に点頭いて、「ホントウだから困ってしまった。」 U氏が最初から・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・煩悶の内容こそ違え、二葉亭はあの文三と同じように疑いから疑いへ、苦みから苦みへ、悶えから悶えへと絶間なく藻掻き通していた。これが即ち二葉亭の存在であって、長生きしたからって二葉亭の生涯には恐らく「満足」や「安心」や「解決」や「落着」は決して・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・「なるほど、違えねえ、新さんが案じてるだろう」「癪をお言いでないよ! だが、全くのことがね、この節内のは体が悪くて寝てるものだからね」「そうか、そいつはいけねえな」 二 永代橋傍の清住町というちょっとした・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・お祖母さんは勝子の名前を、その当時もう女学校へ上っていたはずの信子の名と、よく呼び違えた。信子はその当時母などとこちらにいた。まだ信子を知らなかった峻には、お祖母さんが呼び違えるたびごとに、信子という名を持った十四五の娘が頭に親しく想像され・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫