・・・その落ちるのが余り密なので、遠い所の街灯の火が蔽われて見えない。 爺いさんが背後を振り返った時には、一本腕はもう晩食をしまっていた。一本腕はナイフと瓶とを隠しにしまった。そしてやっと人づきあいのいい人間になった。「なんと云う天気だい。た・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・あれあれ、今黄金の珠がいざって遠い海の緑の波の中に沈んで行く。名残の光は遠方の樹々の上に瞬をしている。今赤い靄が立ち昇る。あの靄の輪廓に取り巻かれている辺には、大船に乗って風波を破って行く大胆な海国の民の住んでいる町々があるのだ。その船人は・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・あそこいらまではまだなかなか遠い事であろうと思われて心細かった。 明治廿八年の五月の末から余は神戸病院に入院して居った。この時虚子が来てくれてその後碧梧桐も来てくれて看護の手は充分に届いたのであるが、余は非常な衰弱で一杯の牛乳も一杯のソ・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・それにせいが高いので、教室でもいちばん火に遠いこわれた戸のすきまから風のひゅうひゅう入って来る北東の隅だったのです。 けれども今日は、こんなにそらがまっ青で、見ているとまるでわくわくするよう、かれくさも桑ばやしの黄いろの脚もまばゆいくら・・・ 宮沢賢治 「イーハトーボ農学校の春」
・・・五つ年下の植村婆さんは、耳の遠い沢やに、大きな声で悠くり訊いた。「いよいよ行ぐかね?」 沢や婆は、さも草臥れたように其に答えず、「やっとせ」と上り框に腰を下した。そして、がさがさの手の平で顔じゅう撫でた。植村婆さんは、一寸皮・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・ 十一時半頃になると、遠い処に住まっているものだけが、弁当を食いに食堂へ立つ。木村は号砲が鳴るまでは為事をしていて、それから一人で弁当を食うことにしている。 二三人の同僚が食堂へ立ったとき、電話のベルが鳴った。給仕が往って暫く聞いて・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ ツァウォツキイは早速出発して、遠い遠い道を歩いた。とうとうノイペスト製糸工場の前に出た。ツォウォツキイは工場で「こちらで働いていました後家のツァウォツキイと申すものは、ただ今どこに住まっていますでしょうか」と問うた。 住まいは分か・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・少くとも新感覚とは遥に遠い。官能表徴は感覚表徴の一属性であってより最も感性的な感覚表徴の一部である。このため官能表徴と感覚表徴との明確な範疇綱目を限定することは最も困難なことではあるが、しかし、少くとも清少納言の感覚は、あれは感覚ではなく官・・・ 横光利一 「新感覚論」
・・・に光り止まない、空想的な、不思議に優しい調子の、薄色の夕日の景色にも、また暴風の来そうな、薄黒い空の下で、銀鼠色に光っている海にも、また海岸に棲んでいる人民の異様な目にも、どの中にも一種の秘密がある。遠い北国の謎がある。静かな夏の日に、北風・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・そしてその女の声は次第に柔かに次第に夢のようになって、丁度極く遠い遠い所から聞えて来るようである。 夢のような女の物語はこうである。「内には真白い間が一間ございますの。思って御覧あそばせ。壁が極く明るい色に塗ってありますものですから・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫