・・・わけはわからないが本能的に敵から遠ざかるような方向に駆け出すのである。右の腰部からまっ黒な血がどくどく流れ出して氷盤の上を染める。映画では黒いだけのこの血が実際にはいかに美しく物すごい紅色を氷海のただ中に染め出したことであろう。そのうちにま・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・の類となると物理学や気象学の範囲からはだいぶ遠ざかるようである。しかし「天狗様のおはやし」などというものはやはり前記の音響異常伝播の一例であるかもしれない。 天狗和尚とジュースの神の鷲との親族関係は前に述べたが、河童や海亀の親類・・・ 寺田寅彦 「化け物の進化」
・・・のを連れて行くけれど、自分はその頃から文学とか音楽とかとにかく中学生の身としては監督者の眼を忍ばねばならぬ不正の娯楽に耽りたい必要から、留守番という体のいい名義の下に自ら辞退して夏三月をば両親の眼から遠ざかる事を無上の幸福としていたからであ・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・足音は部屋の前を通り越して、次第に遠ざかる下から、壁の射返す響のみが朗らかに聞える。何者か暗窖の中へ降りていったのであろう。「この盾何の奇特かあると巨人に問えば曰く。盾に願え、願うて聴かれざるなし只その身を亡ぼす事あり。人に語るな語るとき盾・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・其両親に遠ざかるは即ち之に離れざるの法にして、我輩の飽くまでも賛成する所なれども、或は家の貧富その他の事情に由て別居すること能わざる場合もある可きなれば、仮令い同居しても老少両夫婦の間は相互に干渉することなく、其自由に任せ其天然に従て、双方・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ 人あるいはこの説を聞き、政府と人民と相遠ざかることあらば、気脈を通ぜずして、必ず不和を生ぜんという者あるべしといえども、ひっきょう、未だ思わざるの論のみ。余輩のいわゆる遠ざかるとは、たがいに遠隔して敵視するをいうに非ず、また敬してこれ・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・下落を嫌わば平民に遠ざかるべし、これを止むる者なし。昇進を願わば華族に交るべし、またこれを妨る者なし。これに遠ざかるもこれに交るも、果してその身に何の軽重を致すべきや。これを是れ知らずして自から心を悩ますは、誤謬の甚しき者というべし。故に有・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・それまでは、何処やら君の虚偽を感じてはいてもはっきり君を憎むという心もなかったが、その時から僕は君を憎み始めて、君から遠ざかるようにした。その後僕は君と交っている間、君の毒気に中てられて死んでいた心を振い起して高い望を抱いたのだが、そのお蔭・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・けれども景色が余り広いと写実に遠ざかるから今少し狭く細かく写そうと思うて、月が木葉がくれにちらちらして居る所、即ち作者は森の影を踏んでちらちらする葉隠れの月を右に見ながら、いくら往ても往ても月は葉隠れになったままであって自分の顔をかっと照す・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・人間から身体の構造が遠ざかるに従ってだんだん意識が薄くなるかどうかそれは少しもわかりませんがとにかくわれわれは植物を食べるときそんなにひどく煩悶しません。そこはそれ相応にうまくできているのであります。バクテリヤの事が大へんやかましいようでし・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
出典:青空文庫