・・・ ボースンとナンバンとが、サロンデッキに現れるや否や、彼は遠方から呶鳴った。「フォア、ピークのガットを開けろ。そして、死人と、病人とを中へ入れろ。コレラだ! それから、病人の食事は、ガットから抛り込むことにするんだ。それから、おもて・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・どッか遠方へでもおいでなさるんですか」「なアに、遠方へ行くんだか、どこへ行くんだか、私にも分らないんですがね……」と、またじッと考えている。「何ですよ。なぜそんな心細いことをお言いなさるんですよ」と、吉里の声もやや沈んで来た。「・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ あるいは一人と一人との私交なれば、近く接して交情をまっとうするの例もなきに非ざれども、その人、相集まりて種族を成し、この種族と、かの種族と相交わるにいたりては、此彼遠く離れて精神を局外に置き遠方より視察するに非ざれば、他の真情を判断し・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・――ただ何だか遠方の地平線に薄ぼんやりとあかるく夜が明けかかっているような所が見えるばかりだ。 未知の神、未知の幸福――これは象徴派のよく口にする所だが、あすこいらは私と同じ傾向に来て居るんじゃないかと思うね。併し彼等はまるで今迄とは性・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・名残の光は遠方の樹々の上に瞬をしている。今赤い靄が立ち昇る。あの靄の輪廓に取り巻かれている辺には、大船に乗って風波を破って行く大胆な海国の民の住んでいる町々があるのだ。その船人はまだ船の櫓の掻き分けた事のない、沈黙の潮の上を船で渡るのだ。荒・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・この歌は、或女の処へ、其女の亭主の幽霊が出て来て、自分は遠方で死だという事を知らすので、其二人の問答の内に、次のような事がある。“Is there any room at your head, Willie?Or any roo・・・ 正岡子規 「死後」
・・・清二は遠方の連隊に入営した。働きてが一人減った。――しかしまあよい。同時に食う口も一つ減ったのだから。が、余りよくないことが、案外なところに潜んでいたのを、先ずおしまが発見し始めました。学問こそないが、おしまも女である以上、妙に鋭い、思い込・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・風のない日の薄曇りの空に、煙がまっすぐにのぼって、遠方から見えた。それから火を踏み消して、あとを水でしめして引き上げた。台所にいた千場作兵衛、そのほか重手を負ったものは家来や傍輩が肩にかけて続いた。時刻はちょうど未の刻であった。 光・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・栖方の学位論文通過の祝賀会を明日催したいから、梶に是非出席してほしい、場所は横須賀で少し遠方だが、栖方から是非とも梶だけは連れて来て貰いたいと依頼されたということで、会を句会にしたいという。句会の祝賀会なら出席することにして、梶は高田の誘い・・・ 横光利一 「微笑」
・・・先におなくなり為って、遠方の墓に埋られていらっしゃる方に、似てるのだよ。ぼうもねその方の通りに、寛大して、やさしくッて、剛勇くなっておくれよ」。こう聞いて訳もなく悲しくなって、すすり泣しながら、また何気なく、「アアその墓に埋ってる人は殿さま・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫