・・・六十三という条、実はマダ還暦で、永眠する数日前までも頭脳は明晰で、息の通う間は一行でも余計に書残したいというほど元気旺勃としていた精力家の易簀は希望に輝く青年の死を哀むと同様な限りない恨事である。・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・親爺の還暦の「お祝い」のことで帰っていてもそうなのである。嚊を貰って、嚊の親もとへ行っていると、スパイは、その門の中へまでのこ/\はいって来る。金儲けと財産だけしか頭にない嚊の親や、兄弟が、どんな疑心を僕に対して起すかは、云わずとも知れた話・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
・・・ 子供の初節句、結婚の披露、還暦の祝い、そういう機会はすべて村のバッカスにささげられる。そうしなければその土地には住んでいられないのである。 そういう家に不幸のあった時には村じゅうの人が寄り集まって万端の世話をする。世話人があまりお・・・ 寺田寅彦 「田園雑感」
何心なく場内を眺めているうちに、不思議なことに注意をひかれた。その夜は、明治、大正、昭和と経て還暦になった或る洋画家のために開かれた祝賀の会なのであった。この燈火の煌いた華やかな宴席には、もう何年も前に名をきき知っているば・・・ 宮本百合子 「或る画家の祝宴」
・・・ 私達にとっての六十一はそれとして祝う意味もないが、お母さんはやはり還暦ということをお考えでしょう。普通は赤い座蒲団などを送りますが、そんな形式的なことは元気なお母さんに失礼ですから、何とかやりくりしてお気に入りそうな着物を一揃え上げたいも・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・碁盤を挟んで対坐しているのは、この寺の住持と、麓の村の地主とであって、いずれもまだ還暦にはならない。時は真夏の午後、三、四時ごろである。二人は何も言わない。ただ時々、パチッパチッと石を置く音がする。 わたくしにはこの寺がどこであるか解ら・・・ 和辻哲郎 「松風の音」
出典:青空文庫