・・・蘭袋はその日も酒気を帯びて、早速彼の病床を見舞った。「先生、永々の御介抱、甚太夫辱く存じ申す。」――彼は蘭袋の顔を見ると、床の上に起直って、苦しそうにこう云った。「が、身ども息のある内に、先生を御見かけ申し、何分願いたい一儀がござる。御聞き・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・黒絽の羽織をひっかけた、多少は酒気もあるらしい彼は、谷村博士と慇懃な初対面の挨拶をすませてから、すじかいに坐った賢造へ、「もう御診断は御伺いになったんですか?」と、強い東北訛の声をかけた。「いや、あなたが御見えになってから、申し上げ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・それはいけない。そんな事を云っては×××すまない。」「べらぼうめ! すむもすまねえもあるものか! 酒保の酒を一合買うのでも、敬礼だけでは売りはしめえ。」 田口一等卒は口を噤んだ。それは酒気さえ帯びていれば、皮肉な事ばかり並べたがる、・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・と云ったぎりしばらくは涙を呑んだようでしたが、もう一度新蔵が虹のような酒気を吐いて、「御取次。」と云おうとすると、襖を隔てた次の間から、まるで蟇が呟くように、「どなたやらん、そこな人。遠慮のうこちへ通らっしゃれ。」と、力のない、鼻へ抜けた、・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・これは私たちのように、酒気があったのでは決してない。 切符は五十銭である。第一、順と見えて、六十を越えたろう、白髪のお媼さんが下足を預るのに、二人分に、洋杖と蝙蝠傘を添えて、これが無料で、蝦蟇口を捻った一樹の心づけに、手も触れない。・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ という声濁りて、痘痕の充てる頬骨高き老顔の酒気を帯びたるに、一眼の盲いたるがいとものすごきものとなりて、拉ぐばかり力を籠めて、お香の肩を掴み動かし、「いまだに忘れない。どうしてもその残念さが消え失せない。そのためにおれはもうすべて・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・と今度は徳二郎がついでやったのを、女はまたもや一息に飲み干して、月に向かって酒気をほっと吐いた。「サアそれでよい、これからわしが歌って聞かせる。」「イイエ徳さん、わたしは思い切って泣きたい、ここならだれも見ていないし、聞こえもしない・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・と軍曹酒気を吐いて「お茶を一ぱい頂戴」「今入れているじゃありませんか、性急ない児だ」と母は湯呑に充満注いでやって自分の居ることは、最早忘れたかのよう。二階から大声で、「大塚、大塚!」「貴所下りてお出でなさいよ」と母が呼ぶ。大塚軍・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・』かれは酒気を帯びていた。『これが土産だ。ほかに何にもない、そら! これを君にくれる、』と投げだしたのは短刀であった。自分はその唐突に驚いた。かかる挙動は決して以前のかれにはなかったのである。自分はもう今日のかれ、七年前のかれでないこと・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・自分は彼の言語動作のいずれの点にも、酒気に駆られて動くのだと評してしかるべききわだった何物をも認めなかったので、異常な彼の顔色については、別にいうところもなく済ました。しばらくして彼は茶器を代えに来た下女の名を呼んで、コップに水を一ぱいくれ・・・ 夏目漱石 「手紙」
出典:青空文庫