・・・火を目がけて小走りに歩むその足音重し。 嗄れし声にて、よき火やとかすかに叫びつ、杖なげ捨てていそがしく背の小包を下ろし、両の手をまず炎の上にかざしぬ。その手は震い、その膝はわななきたり。げに寒き夜かな、いう歯の根も合わぬがごとし。炎は赤・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・かくて人々深き眠りに入り夜ふけぬれど、この火のみはよく燃えつ、炎は小川の水にうつり、煙はますぐに立ちのぼりて、杉の叢立つあたりに青煙一抹、霧のごとくに重し。 夜はいよいよふけ、大空と地と次第に相近づけり。星一つ一つ梢に下り、梢の露一つ一・・・ 国木田独歩 「星」
・・・ おしかは、お櫃の蓋に重しの石を置いて、つゞくった薄い坐蒲団の上に戻った。やがて、猫は床の下から這い出て、台所をうろ/\ほっつきまわった。食い物がないのを知ると、竈の傍へ行って、ペチャ/\やりだした。「くそッ!」おしかはまた立って行・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・これに就いて可笑しい話は、柄が三尺もある大きい薪割が今も家に在りますが、或日それを窃に持出しコツコツ悪戯して遊んで居たところ、重さは重し力は無し、過って如何なる機会にか膝頭を斬りました。堪らなく痛かったが両親に云えば叱られるから、人前だけは・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・ 而して此働き盛りの時に於て、或は人道の為めに、或は事業の為めに、或は恋愛の為めに、或は意気の為めに、兎に角自己の生命よりも重しと信ずる或物の為めに、力の限り働らきて倒れて後ち已まんことは、先ず死所を得たもので、其の社会・人心に影響・印・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・はいと言い言い、あらあらかしくと書きおさめて、硯の蓋を重しに置いて出て行く。――自分が藤さんなら、こんな時にはぜひとも何とか書き残しておく。行ってみれば実際何か机の上に残してあるかもしれないという気がする。 しかしやっぱりそんな手紙はな・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ 圭さんは、いきなり、自分の帽子の上へ蝙蝠傘を重しに置いて、颯と、薄の中に飛び込んだ。「おいこの見当か」「もう少し左りだ」 圭さんの身躯は次第に青いものの中に、深くはまって行く。しまいには首だけになった。あとに残った碌さんは・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・沢庵漬の重石程な岩石の破片が数町離れた農家の屋根を抜けて、囲炉裏へ飛び込んだ。 農民は駐在所へ苦情を持ち込んだ。駐在所は会社の事務所に注意した。会社員は組員へ注意した。組員は名義人に注意した。名義人は下請に文句を言った。 下請は世話・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・柄において、これを政事に比して軽重の別あるがゆえに、その軽重の差にしたがいて、双方の長と長と比肩するを得ざるものなりといえども、今一国文明の進歩を目的に定めて、政事と学事と相互に比較したらば、いずれを重しとし、いずれを軽しとするは、判断にお・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・その責大にして、その罰重しというべし。私塾の得、一なり。一、私塾にて俗吏を用いず。金穀の会計より掃除・取次にいたるまで、生徒、読書のかたわらにこれを勤め、教授の権も出納の権も、読書社中の一手にこれをとるがゆえに、社中おのおの自家の思をな・・・ 福沢諭吉 「学校の説」
出典:青空文庫