・・・細帯一つになった母は無器用に金槌を使っていた。その姿は何だか家庭に見るには、余りにみすぼらしい気のするものだった。氷も水に洗われた角には、きらりと電燈の光を反射していた。 けれども翌朝の多加志の熱は九度よりも少し高いくらいだった。Sさん・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・清正は短い顋髯を生やし、金槌や鉋を使っていた。けれども何か僕らには偉そうに思われてしかたがなかった。 三三 七不思議 そのころはどの家もランプだった。したがってどの町も薄暗かった。こういう町は明治とは言い条、まだ「本・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・背後の兵舎のほうから、誰やら金槌で釘を打つ音が、幽かに、トカトントンと聞えました。それを聞いたとたんに、眼から鱗が落ちるとはあんな時の感じを言うのでしょうか、悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私は憑きものから離れたように、きょろりとなり、なんと・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・ その頃、幾年となく、黒衣の帯に金槌をさし、オペラ館の舞台に背景の飾附をしていた年の頃は五十前後の親方がいた。眼の細い、身丈の低くからぬ、丈夫そうな爺さんであった。浅草という土地がら、大道具という職業がらには似もつかず、物事が手荒でなく・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・ 道具箱から鑿と金槌を持ち出して、裏へ出て見ると、せんだっての暴風で倒れた樫を、薪にするつもりで、木挽に挽かせた手頃な奴が、たくさん積んであった。 自分は一番大きいのを選んで、勢いよく彫り始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかっ・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・その大規模な歴史の廃墟のかたわらに、人民の旗を翻し、さわやかに金槌をひびかせ、全民衆の建設が進行しつつあるとはいいきれない状態にある。なぜなら、旧体制の残る力は、これを最後の機会として、これまで民衆の精神にほどこしていた目隠しの布が落ちきら・・・ 宮本百合子 「歌声よ、おこれ」
・・・ハッピを着た大工が彼方此方し鉋や金槌の音が賑かで、家の普請をやっている。真新しい柱や梁の白木の色が、さえない砂の鼠色のところに際立って寒く見えた。 私共は、通りぬけて砂丘の間を過ぎ、広い波打ちぎわまで余程の距離のある海辺に出た。寂しく、・・・ 宮本百合子 「静かな日曜」
・・・ 渡辺はやや満足してサロンへ帰った。給仕が食事の室からすぐに勝手の方へ行ったので、渡辺ははじめてひとりになったのである。 金槌や手斧の音がぱったりやんだ。時計を出して見れば、なるほど五時になっている。約束の時刻までには、まだ三十分あ・・・ 森鴎外 「普請中」
・・・院内の窓という窓には尽く金網が張られ出した。金槌の音は三日間患者たちの安静を妨害した。一日の混乱は半カ月の静養を破壊する。患者たちの体温表は狂い出した。 しかし、この肺臓と心臓との戦いはまだ続いた。既に金網をもって防戦されたことを知った・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫