・・・私はその楢山夫人が、黒の紋付の肩を張って、金縁の眼鏡をかけながら、まるで後見と云う形で、三浦の細君と並んでいるのを眺めると、何と云う事もなく不吉な予感に脅かされずにはいられませんでした。しかもあの女権論者は、骨立った顔に薄化粧をして、絶えず・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ そこへ濶達にはいって来たのは細い金縁の眼鏡をかけた、血色の好い円顔の芸者だった。彼女は白い夏衣裳にダイアモンドを幾つも輝かせていた。のみならずテニスか水泳かの選手らしい体格も具えていた。僕はこう言う彼女の姿に美醜や好悪を感ずるよりも妙・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・が、たちまち目を挙げると、もう一度金縁の近眼鏡の奥に嬌羞に近い微笑を示した。「そうですか? じゃまた、――御勉強中失礼でした。」 粟野さんはどちらかと言えば借金を断られた人のように、十円札をポケットへ収めるが早いか、そこそこ辞書や参・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・と、斜に新蔵と向い合った、どこかの隠居らしい婆さんが一人、黒絽の被布の襟を抜いて、金縁の眼鏡越しにじろりと新蔵の方を見返したのです。勿論それはあの神下しの婆なぞとは何の由縁もない人物だったのには相違ありませんが、その視線を浴びると同時に、新・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ お医者さんは、白い鬚の方のではない、金縁の眼がねをかけた方のだった。その若いお医者さんが八っちゃんのお腹をさすったり、手くびを握ったりしながら、心配そうな顔をしてお母さんと小さな声でお話をしていた。お医者の帰った時には、八っちゃんは泣・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・ 私はことの意外に呆れてしまったが、果して間もなくあるビルディングの地下室にある理髪店へ行くと、金縁眼鏡をかけたそこの主人はあなたのような髪は時局柄不都合であると言って、あれよあれよと驚いている間に、私の頭を甲型か乙型か翼賛型か知らぬが・・・ 織田作之助 「髪」
・・・ に対してひどく興味を感じたらしく、入口の柱にもたれて皆なの後ろから、金縁の近眼鏡を光らして始終白い歯を見せてニヤリニヤリしていた。…… 私はひどく疲れきって下宿に帰って、床につくとすぐ眠ることはできた。しかし朝眼が醒めてみると、私は喘・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・ 相川は金縁の眼鏡を取除して丁寧に白いハンケチで拭いて、やがてそれを掛添えながら友達の顔を眺めた。「相川君、まだ僕は二三日東京に居る積りですから、いずれ御宅の方へ伺うことにしましょう」こう原は言出した。「いろいろ御話したいこともある・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・年一年とくらしが苦しく、わが絶望の書も、どうにも気はずかしく、夜半の友、モラルの否定も、いまは金縁看板の習性の如くにさえ見え、言いたくなき内容、困難の形式、十春秋、それをのみ繰りかえし繰りかえし、いまでは、どうやら、この露地が住み良く、たそ・・・ 太宰治 「喝采」
・・・色が白く、細面の、金縁の眼鏡をかけた、二十七、八のいやらしいおまわりさんでございました。ひととおり私の名前や住所や年齢を尋ねて、それをいちいち手帖に書きとってから、急ににやにや笑いだして、 ――こんどで、何回めだね? と言いました。・・・ 太宰治 「燈籠」
出典:青空文庫