・・・女は夫や子供の死後、情深い運送屋主人夫婦の勧め通り、達者な針仕事を人に教えて、つつましいながらも苦しくない生計を立てていたのです。」 客は長い話を終ると、膝の前の茶碗をとり上げた。が、それに唇は当てず、私の顔へ眼をやって、静にこうつけ加・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・一人の年老った寡婦がせっせと針仕事をしているだろう、あの人はたよりのない身で毎日ほねをおって賃仕事をしているのだがたのむ人が少いので時々は御飯も食べないでいるのがここから見える。私はそれがかわいそうでならないから何かやって助けてやろうと思う・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・ 急ぎの仕立物がございましたかして、お米が裏庭に向きました部屋で針仕事をしていたのでございます。 まだ明も点けません、晩方、直きその夕顔の咲いております垣根のわきがあらい格子。手許が暗くなりましたので、袖が触りますばかりに、格子の処・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・今も言おう、この時言おう、口へ出そうと思っても、朝、目を覚せば俺より前に、台所でおかかを掻く音、夜寝る時は俺よりあとに、あかりの下で針仕事。心配そうに煙管を支いて、考えると見ればお菜の献立、味噌漉で豆腐を買う後姿を見るにつけ、位牌の前へお茶・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・そりゃ東京では針仕事のできる人なら身一つを過ごすくらいはまことに気安いには相違ないですが、あなたは身分ということを考えねばなりますまい。それにそんな考えを起こすのは、いよいよいけないという最後のときの覚悟です。今おうちではああしてご無事で、・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・年増の女が、たゞ独り、彼方で後向になって針仕事をしていた。そばを食べると昔の歌をうたって聞かせるという話だが、何も歌わなかった。 私が、この小舎を出る時、二人旅人が入って来た。 小川未明 「舞子より須磨へ」
・・・』『そうね』とお絹が応えしままだれも対手にせず、叔母もお常も針仕事に余念なし。家内ひっそりと、八角時計の時を刻む音ばかり外は物すごき風狂えり。『時に吉さんはどうしてるだろう』と幸衛門が突然の大きな声に、『わたしも今それを思ってい・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・八時過ぎでもあろうか、雨はしとしと降っている、踏切の八百屋では早く店をしまい、主人は長火鉢の前で大あぐらをかいて、いつもの四合の薬をぐびりぐびり飲っている、女房はその手つきを見ている、娘のお菊はそばで針仕事をしながら時々頭を上げて店の戸の方・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・ 其処で真蔵はお清の居る部屋の障子を開けると、内ではお清がせっせと針仕事をしている。「大変勉強だね」「礼ちゃんの被布ですよ、良い柄でしょう」 真蔵はそれには応えず、其処辺を見廻わしていたが、「も少し日射の好い部屋で縫った・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・それからね寧のこと針仕事の方が宜いかと思って暫時局を欠勤んでやって見たのですよ。しかし此頃に成って見ると矢張仕事ばかりじゃア、有る時や無い時が有って結極が左程の事もないようだし、それに家にばかりいるとツイ妹や弟の世話が余計焼きたくなって思わ・・・ 国木田独歩 「二少女」
出典:青空文庫