・・・井伏さんが本心から釣が好きということについては、私にもいささか疑念があるのだが、旅行に釣竿をかついで出掛けるということは、それは釣の名人というよりは、旅行の名人といった方が、適切なのではなかろうかと考えて居る。 旅行は元来手持ち無沙汰な・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・ざぶりと波の音。釣竿を折る。鴎が魚を盗みおった。メルシイ、マダム。おや、口笛が。――なんのことだか、わからない。まるで、出鱈目である。これが、小説の筋書である。朝になると、けろりと忘れている百千の筋書のうちの一つである。それからそれと私は、・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・宿から釣竿を借りて、渓流の山女釣りを試みる時もある。一匹も釣れた事は無い。実は、そんなにも釣を好きでは無いのである。餌を附けかえるのが、面倒くさくてかなわない。だから、たいてい蚊針を用いる。東京で上等の蚊針を数種買い求め、財布にいれて旅に出・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
・・・座敷の縁側の軒下に投網がつり下げてあって、長押のようなものに釣竿がたくさん掛けてある。何時間で乙の旅人が甲の旅人に追い着くかという事がどうしてもわからぬ、考えていると頭が熱くなる、汗がすわっている足ににじみ出て、着物のひっつくのが心・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・弟はまたそれが不愉快でたまらないのだけれども、兄が高圧的に釣竿を担がしたり、魚籃を提げさせたりして、釣堀へ随行を命ずるものだから、まあ目を瞑ってくっついて行って、気味の悪い鮒などを釣っていやいや帰ってくるのです。それがために兄の計画通り弟の・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・五十銭で買ってもらった釣竿を持ち、小さいなつめ形の顔の上に途方もなく大きい海水帽をかぶり――その鍔をフワフワ風に煽らせながら、勇壮に釣に出かける。彼女を堀に誘うのは、噂に聞いた鯉だ。誰も釣針を垂れないからこの堀には立派な鯉がいますよ、と或る・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・ 今の場合、わざわざ拾って来られたところでどうしようもない魚籠だの釣竿だのを、一つ一つ若者の前へ並べたてながら、彼らは財布と銀時計――若者も内心ではどうなったろうと思っていた――をこっそり牒し合わせて、見付からないことにしてしまった。・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・往来を晴着を着た娘達が通り、釣竿をかついだ子供が走り、がっしりとした百姓たちが、店の連中、そこにかたまっている群を斜に見、黙って縁なし帽やフェルト帽をあげながら通って行った。その夕方、ロマーシはどこかへか出て行った。小屋に独りいたゴーリキイ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫