・・・という申訳の表札の文字が、鈍い裸電燈の明りに、わずかにそれと読めた。「やあ、うちもやられたんですか」「やられたよ。田舎へ引っ込もうと思ったんだが、お前が帰って来てうろうろすると可哀想だと思ったから、とにかく建てて置いたよ」 それ・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・私はその返事のバスに人ごとながら聴耳をたてたが、相不変曖昧な言葉が同じように鈍い調子で響くばかりで、やがて女はあきらめたようすでいなくなってしまった。 私は静かな眠った港を前にしながら転変に富んだその夜を回想していた。三里はとっくに歩い・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・人間の教養として文学の趣味はあっても倫理学の素養のないということは不具であって、それはその人の美の感覚に比し、善の感覚が鈍いことの証左となり、その人の人間としての素質のある低さと、頽廃への傾向を示すものである。美の感覚強くして善の関心鈍きと・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・初め鈍いように見える者が刻苦して大成した人は多いが、初め才能があってそれを恃んで刻苦しないために駄目になった者も多い。素質のいい才はじけぬ人が絶え間なく刻苦するのが一番いいらしい。アララギ派の元素伊藤左千夫氏は正岡子規の弟子のうち一番鈍才で・・・ 倉田百三 「芸術上の心得」
・・・ 黄色い鈍い太陽は、遠い空からさしていた。 屋根の上に、敵兵の接近に対する見張り台があった。その屋根にあがった、一等兵の浜田も、何か悪戯がしてみたい衝動にかられていた。昼すぎだった。「おい、うめえ野郎が、あしこの沼のところでノコ・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・これまでの銃声にまじって、また別の異った太く鈍い銃声がひびいてきた。百姓が日本の兵士に抵抗して射撃しだしたのだ。「やはり、パルチザンだったですね、一寸、抵抗しだしました。」 副官は、事もなげに笑った。「おや! おや! 今度は、日・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・身体と身体が床の上をずる音がして、締め込みでもされているらしいつまった鈍い声が聞えた。――瞬間、今迄喧しかった監房という監房が抑えられたようにシーンとなった。俺は途中まで箸を持ちあげたまゝ、息をのんでいた。 と、――その時、誰か一人が突・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・青い目で空を仰ぐような事もない。鈍い、悲しげな、黒い一団をなして、男等は並木の間を歩いている。一方には音もなくどこか不思議な底の方から出て来るような河がある。一方には果もない雪の原がある。男等の一人で、足の長い、髯の褐色なのが、重くろしい靴・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・枝の生えかたがちがうし、それに、木肌の日の反射のしかただって鈍いじゃないか。もっとも、芽が出てみないと判らぬけれど。」 私は立ったまま、枯木へ寄りかかって彼に尋ねた。「どうして芽が出ないのだ。」「春から枯れているのさ。おれがここ・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・ 紙の色は鈍い鼠色で、ちょうど子供等の手工に使う粘土のような色をしている。片側は滑かであるが、裏側はずいぶんざらざらして荒筵のような縞目が目立って見える。しかし日光に透かして見るとこれとはまた独立な、もっと細かく規則正しい簾のような縞目・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
出典:青空文庫