・・・此の bitume 色の茎の間を縫つて、黒ずんだ上に鈍い反射を見せてゐる水の面を、十羽ばかりの雁が緩やかに往来してゐる。中には停止して動かぬのもある。」 此の景は池之端七軒町から茅町に到るあたりの汀から池を見たものであろう。作者は此の景・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ この時自分のいる所から余り遠くない所に、鈍い、鼾のような声がし出したので、一本腕は頭をその方角に振り向けた。「おや。なんだ。爺いさん。そいつあいけねえぜ。」一本腕が、口に一ぱい物を頬張りながら云った。 一言の返事もせずに、地び・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・ 五日の月が、西の山脈の上の黒い横雲から、もう一ぺん顔を出して、山に沈む前のほんのしばらくを、鈍い鉛のような光で、そこらをいっぱいにしました。冬がれの木や、つみ重ねられた黒い枕木はもちろんのこと、電信柱までみんな眠ってしまいました。・・・ 宮沢賢治 「シグナルとシグナレス」
・・・の偉大さをも感じないほど疲れた鈍い、哀れな感情になる事を思うのは、いかほど辛い事だろう。 どれほど、白髪が、私の頭を渦巻こうとも額にしわが数多く寄ろうとも、只、希うのは、健に、敏い感情のみを保ちたいと云う事である。 今私が、妹の死を・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・太鼓の鈍い響きと令丁のかすかな声とが遠くでするのを人々は今一度聞いた。そこで人々はこの事件に話を移して、フォルチュネ、ウールフレークが再びその手帳を取り返すことができるだろうかできないだろうかなど言い合った。 そして食事が終わった。・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・境内の杉の木立ちに限られて、鈍い青色をしている空の下、円形の石の井筒の上に笠のように垂れかかっている葉桜の上の方に、二羽の鷹が輪をかいて飛んでいたのである。人々が不思議がって見ているうちに、二羽が尾と嘴と触れるようにあとさきに続いて、さっと・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・が、二人の塊りは無言のまま微かな唸りを吐きつつ突き立って、鈍い振子のように暫く左右に揺れていた。「此の餓鬼めッ。」「くそったれッ。」 勘次の身体は秋三を抱きながら、どっと後の棺を倒して蒲団の上へ顛覆した。安次の半身は棺から俯伏に・・・ 横光利一 「南北」
・・・ その晩十時過ぎに、もう内中のものが寐てしまってから、己は物案じをしながら、薄暗い庭を歩いて、凪いだ海の鈍い波の音を、ぼんやりして聞いていた。その時己の目に明りが見えた。それはエルリングの家から射していたのである。 己は直ぐにその明・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・外の廊下の鈍い、薄赤い明りで見れば、影のように二三人の人の姿が見える。新しく着いた旅人がこの部屋に這入って来るのである。旅人は這入って戸を締めた。フィンクはその影がどこへ落ち着くか見定めようと、一しょう懸命に見詰めている。しかし影は声もなく・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・眼が鈍い、頭が悪い、心臓が狭い、腕がカジカンでいる、どの性質にも才能にも優れたものはない、――しかも私は何事をか人類のためになし得る事を深く固く信じています。もう二十年! そう思うとぐッたりしていた体に力がみなぎって来る事もあります。 ・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫