・・・ その晩彼女は長火鉢の前に、ぼんやり頬杖をついたなり、鉄瓶の鳴る音に聞き入っていた。玄象道人の占いは、結局何の解釈をも与えてくれないのと同様だった。いや、むしろ積極的に、彼女が密かに抱いていた希望、――たといいかにはかなくとも、やはり希・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・その真中に切られた囲炉裡にはそれでも真黒に煤けた鉄瓶がかかっていて、南瓜のこびりついた欠椀が二つ三つころがっていた。川森は恥じ入る如く、「やばっちい所で」といいながら帳場を炉の横座に招じた。 そこに妻もおずおずと這入って来て、恐・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・その側で鉄瓶のお湯がいい音をたてて煮えていた。 僕にはそこがそんなに静かなのが変に思えた。八っちゃんの病気はもうなおっているのかも知れないと思った。けれども心の中は駈けっこをしている時見たいにどきんどきんしていて、うまく口がきけなかった・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・右の腕はつけ元まで、二人は、はっと熱かったが、思わず言い合わせたかのごとく、鉄瓶に当って見た。左の手は、ひやりとした。「謹さん、沸しましょうかね。」と軽くいう。「すっかり忘れていた、お庇さまで火もよく起ったのに。」「お湯があるか・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・火鉢の向うに踞って、その法然天窓が、火の気の少い灰の上に冷たそうで、鉄瓶より低い処にしなびたのは、もう七十の上になろう。この女房の母親で、年紀の相違が五十の上、余り間があり過ぎるようだけれども、これは女房が大勢の娘の中に一番末子である所為で・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ と少し膝を浮かしながら、手元を覗いて憂慮しそうに、動かす顔が、鉄瓶の湯気の陽炎に薄絹を掛けつつ、宗吉の目に、ちらちら、ちらちら。「大丈夫、それこの通り、ちょいちょいの、ちょいちょいと、」「あれ、止して頂戴、止してよ。」 と・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・長火鉢に鉄瓶が掛かってある。台所の隣り間で家人の平常飲み食いする所なのだ。是は又余りに失敬なと腹の中に熱いうねりが立つものから、予は平気を装うのに余程骨が折れる。「君夕飯はどうかな。用意して置いたんだが、君があまりに遅いから……」「・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・畳一枚ほどに切れている細長い囲炉裡には、この暑いのに、燃木が四、五本もくべてあって、天井から雁木で釣るした鉄瓶がぐらぐら煮え立っていた。「どうも、毎度、子供がお世話になって」と、炉を隔てて僕と相対したお貞婆さんが改まって挨拶をした。・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・六畳の室には電燈が吊下っていて、下の火鉢に火が熾に起きている。鉄瓶には湯が煮え沸っていた。小さな机兼食卓の上には、鞄の中から、出された外国の小説と旅行案内と新聞が載っている。私は、此の室の中で、独り臥たり、起きたり、瞑想に耽ったり、本を読ん・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・そして、囲炉裏に火を起こして、鉄瓶をかけて、先生たちがいらしたら、お茶をあげる用意をしました。そのうち、もう生徒たちがやってきました。やがて、いつものごとく授業が始まりました。 休みの時間に、彼は、老先生の前へいって、東京へ出る、決心を・・・ 小川未明 「空晴れて」
出典:青空文庫