・・・まだ野分の朝などには鼠小僧の墓のあたりにも銀杏落葉の山の出来る二昔前の回向院である。妙に鄙びた当時の景色――江戸と云うよりも江戸のはずれの本所と云う当時の景色はとうの昔に消え去ってしまった。しかしただ鳩だけは同じことである。いや、鳩も違って・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・この幼稚園の庭の隅には大きい銀杏が一本あった。僕はいつもその落葉を拾い、本の中に挾んだのを覚えている。それからまたある円顔の女生徒が好きになったのも覚えている。ただいかにも不思議なのは今になって考えてみると、なぜ彼女を好きになったか、僕自身・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・ 大銀杏の葉の落ち尽した墓地は不相変きょうもひっそりしていた。幅の広い中央の砂利道にも墓参りの人さえ見えなかった。僕はK君の先に立ったまま、右側の小みちへ曲って行った。小みちは要冬青の生け垣や赤のふいた鉄柵の中に大小の墓を並べていた。が・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
・・・ さりとも、人は、と更めて、清水の茶屋を、松の葉越に差窺うと、赤ちゃけた、ばさらな銀杏返をぐたりと横に、框から縁台へ落掛るように浴衣の肩を見せて、障子の陰に女が転がる。 納戸へ通口らしい、浅間な柱に、肌襦袢ばかりを着た、胡麻塩頭の亭・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・「ところでと、あのふうじゃあ、ぜひ、高島田とくるところを、銀杏と出たなあどういう気だろう」「銀杏、合点がいかぬかい」「ええ、わりい洒落だ」「なんでも、あなたがたがお忍びで、目立たぬようにという肚だ。ね、それ、まん中の水ぎわが・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・と笊を手にして、服装は見すぼらしく、顔も窶れ、髪は銀杏返が乱れているが、毛の艶は濡れたような、姿のやさしい、色の白い二十あまりの女が彳む。 蕈は軸を上にして、うつむけに、ちょぼちょぼと並べてあった。 実は――前年一度この温泉に・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ この七の日は、番町の大銀杏とともに名高い、二七の不動尊の縁日で、月六斎。かしらの二日は大粒の雨が、ちょうど夜店の出盛る頃に、ぱらぱら生暖い風に吹きつけたために――その癖すぐに晴れたけれども――丸潰れとなった。……以来、打続いた風ッ吹き・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ 宗吉は、一坂戻って、段々にちょっと区劃のある、すぐに手を立てたように石坂がまた急になる、平面な処で、銀杏の葉はまだ浅し、樅、榎の梢は遠し、楯に取るべき蔭もなしに、崕の溝端に真俯向けになって、生れてはじめて、許されない禁断の果を、相馬の・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・村はずれの坂の降口の大きな銀杏の樹の根で民子のくるのを待った。ここから見おろすと少しの田圃がある。色よく黄ばんだ晩稲に露をおんで、シットリと打伏した光景は、気のせいか殊に清々しく、胸のすくような眺めである。民子はいつの間にか来ていて、昨日の・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ ある日寺田屋へ、結いたての細銀杏から伽羅油の匂いをプンプンさせた色白の男がやってきて、登勢に風呂敷包みを預けると、大事なものがはいっているゆえ、開けてみてはならんぞ。脅すような口を利いて帰って行った。五十吉といい今は西洞院の紙問屋の番・・・ 織田作之助 「螢」
出典:青空文庫