・・・ 水番というのか、銀杏返しに結った、年の老けた婦が、座蒲団を数だけ持って、先に立ってばたばた敷いてしまった。平場の一番後ろで、峻が左の端、中へ姉が来て、信子が右の端、後ろへ兄が座った。ちょうど幕間で、階下は七分通り詰まっていた。 先・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ 風もない青空に、黄に化りきった公孫樹は、静かに影を畳んで休ろうていた。白い化粧煉瓦を張った長い塀が、いかにも澄んだ冬の空気を映していた。その下を孫を負ぶった老婆が緩りゆっくり歩いて来る。 堯は長い坂を下りて郵便局へ行った。日の射し・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・すぐに銀杏の並木がある。右側に十本、左側にも十本、いずれも巨木である。葉の繁るころ、この路はうすぐらく、地下道のようである。いまは一枚の葉もない。並木路のつきるところ、正面に赤い化粧煉瓦の大建築物。これは講堂である。われはこの内部を入学式の・・・ 太宰治 「逆行」
・・・私は仕方なく銀杏の実を爪楊枝でつついて食べたりしていた。しかし、どうしても、あきらめ切れない。 一方、女どもの言い争いは、いつまでもごたごた続いている。 私は立上って、帰ると言った。 お篠は、送ると言った、私たちは、どやどやと玄・・・ 太宰治 「チャンス」
・・・そういう時によく武蔵野名物のから風が吹くことがあってせっかく咲きかけた藤の花を吹きちぎり、ついでに柔らかい銀杏の若葉を吹きむしることがあるが、不連続線の狂風が雨を呼んで干からびたむせっぽい風が収まると共に、穏やかにしめやかな雨がおとずれて来・・・ 寺田寅彦 「五月の唯物観」
・・・ことに今年は実際に小春の好晴がつづき、その上にこの界隈の銀杏の黄葉が丁度その最大限度の輝きをもって輝く時期に際会したために、その銀杏の黄金色に対比された青空の色が一層美しく見えたのかもしれない。 そういうある日の快晴無風の午後の青空の影・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・中に銀杏がえしの女の頭がいくつもあって、それから Fate という字がいろいろの書体でたくさん書き散らしてあった。仰向きに寝ていた藤野が起き上がってそれを見ると、青い顔をしたが何も言わなかった。 九 楝の花・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・ 本郷大学正門内の並み木の銀杏の黄葉し落葉するのにも著しい遅速がある。先年友人M君が詳しく各樹の遅速を調べて記録したことがあって、その結果を見せてもらったことがある。それが、日照とか夜間放熱とか気温とか風当たりとかそういう単なる気象的条・・・ 寺田寅彦 「破片」
・・・ 車掌の声に電車ががたりと動くや否や、席を取りそこねて立っていた半白の婆に、その娘らしい十八、九の銀杏返し前垂掛けの女が、二人一度に揃って倒れかけそうにして危くも釣革に取りすがった。同時に、「あいたッ。」と足を踏まれて叫んだものがあ・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・震災に焼かれた銀杏か松の古木であろう。わたくしはこの巨大なる枯樹のあるがために、単調なる運河の眺望が忽ち活気を帯び、彼方の空にかすむ工場の建物を背景にして、ここに暗欝なる新しい時代の画図をつくり成している事を感じた。セメントの橋の上を材木置・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
出典:青空文庫