・・・袋の底から銀貨が光っていました。はいって来る信徒らは皆入り口の壁や柱にある手水鉢に指の先をちょっと入れて、額へ持って行って胸へおろしてそれから左の乳から右の乳へ十字をかく。堂のわきのマドンナやクリストのお像にはお蝋燭がともって二三人ずつその・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・それから Geld Suchen im Mehl というのは、洗面鉢へ盛ったメリケン粉の中へ顔を突っ込んで中へ隠してある銀貨を口で捜して取り出すのである。やっと捜し出してまっ白になった顔をあげて、口にたまった粉を吐き出しているところはたしか・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・十銭銀貨で一銭のお釣で御在います。お乗換は御在いませんか。」「乗換ですよ。ちょいと。」本所行の老婆は首でも絞められるように、もう金切声になっている。「おい、回数券だ、三十回……。」 鳥打帽に双子縞の尻端折、下には長い毛糸の靴足袋・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・ 余は婆さんの労に酬ゆるために婆さんの掌の上に一片の銀貨を載せた。ありがとうと云う声さえも朗読的であった。一時間の後倫敦の塵と煤と車馬の音とテームス河とはカーライルの家を別世界のごとく遠き方へと隔てた。・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・ そこで私は、十銭銀貨一つだけ残して、すっかり捲き上げられた。「どうだい、行くかい」蛞蝓は訊いた。「見料を払ったじゃねえか」と私は答えた。私の右腕を掴んでた男が、「こっちだ」と云いながら先へ立った。 私は十分警戒した。こいつ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・もっとも地獄の沙汰も金次第というから犢鼻褌のカクシへおひねりを一つ投げこめば鬼の角も折れない事はあるまいが生憎今は十銭の銀貨もないヤ。ないとして見りャうかとはして居られない。是非死ぬとなりャ遺言もしたいし辞世の一つも残さなけりャ外聞が悪いし・・・ 正岡子規 「墓」
・・・するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニは俄かに顔いろがよくなって威勢よくおじぎをすると台の下に置いた鞄をもっておもてへ飛びだしました。それから元気よく口笛を吹きながらパン屋へ寄ってパン・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ 洋傘直しは帽子をとり銀貨と銅貨とを受け取ります。「ありがとうございます。剃刀のほうは要りません。」「どうしてですか。」「お負けいたしておきましょう。」「まあ取って下さい。」「いいえ、いただくほどじゃありません。」・・・ 宮沢賢治 「チュウリップの幻術」
・・・と笑い乍ら、茶箪笥の横にあった筈の自分の銀貨入れをみつけた。覚え違いと見え、二三枚畳んで置いてあった新聞の間にも見当らない。下駄を穿き、「まだかい」とせき立てる。愛は戸棚の、小さい箱根細工の箱から、銀貨、白銅とりまぜて良人の拡げ・・・ 宮本百合子 「斯ういう気持」
・・・――つまりこれは読者のきわめて小ブルジョア的興味によびかけ何枚かの銀貨を釣り出そうとする、ブルジョア婦人雑誌つきものの猫とそのシッポの如き題目なのであります。 さて、この質問の題を見ると、「今度恋愛するとしたら」とある。前に恋愛をした君・・・ 宮本百合子 「ゴルフ・パンツははいていまい」
出典:青空文庫