・・・二本目のお銚子にとりかかった時、どういう風の吹き廻しか、ふいと坂田藤十郎の事が思い浮んだのです。芸に行きづまり一夜いつわりの恋をしかけて、やっとインスピレエションを得た。わるい事だが、芸のためには、やむを得まい。私も実行しよう。すぐに屹っと・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・それ、この瓶は戸棚に隠せ、まだ二目盛残ってあるんだ、あすとあさってのぶんだ、この銚子にもまだ三猪口ぶんくらい残っているが、これは寝酒にするんだから、銚子はこのまま、このまま、さわってはいけない、風呂敷でもかぶせて置け、さて、手抜かりは無いか・・・ 太宰治 「禁酒の心」
・・・おひろは銚子を取り上げながら辰之助に聞いたりした。「伯父さんの病気でね」「ああ、松山さんでしょう。あの体の大きい立派な顔の……二三日前に聞きましたわ。もう少し生きていてもらわんと困るって、伊都喜さんが話していらしたわ」 伊都喜と・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・折々は手を叩いて、銚子のつけようが悪いと怒鳴る。母親は下女まかせには出来ないとて、寒い夜を台所へと立って行かれる。自分は幼心に父の無情を憎く思った。 年の暮が近いて、崖下の貧民窟で、提灯の骨けずりをして居た御維新前のお籠同心が、首をくく・・・ 永井荷風 「狐」
・・・二畳に阿久がいて、お銚子だの煮物だのを運んだ。さて当日の模様をざっと書いて見ると、酒の良いのを二升、そら豆の塩茄に胡瓜の香物を酒の肴に、干瓢の代りに山葵を入れた海苔巻を出した。菓子折を注文して、それを長屋の軒別に配った。兄弟分が御世話になり・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・と、小万が銚子を奪ろうとすると、「酒でも飲まないじゃア……」と、吉里がまた注ぎにかかるのを、小万は無理に取り上げた。吉里は一息に飲み乾し、顔をしかめて横を向き、苦しそうに息を吐いた。「剛情だよ、また後で苦しがろうと思ッて」「お酒で苦・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・煙あないぶせ銚子かけてたく藁のもゆとはなしに煙のみたつ「あないぶせ」とかように初に置くこと感情の順序に戻りて悪し。『万葉』にてはかくいわず。全くこの語を廃するか、しからざれば「煙立ついぶせ」などように終りに置くべ・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・この次は銚子行、七時二十分」 それは、旅行案内で藍子も見たが、乗換の工合がわるくて駄目なのだ。いっそ、次の列車で銚子まで行ってやろうか。切符を買いかけ、然しと思うと、それも余りいい思いつきとは思われず……癖で、左の人さし指で鼻の横をたた・・・ 宮本百合子 「帆」
・・・ 女中が、銚子を運んで行った。「宿賃いくらですってきき合わせたら五円だって。へー、五円て云ったのよ」「アラいやだ」「宿賃なんか兎や角云わないさ」「大きなこと云ってるわ!」「兎に角じゃ十日頃としとこう、又此方廻って帰る・・・ 宮本百合子 「町の展望」
・・・ この時小綺麗な顔をした、田舎出らしい女中が、燗を附けた銚子を持って来て、障子を開けて出すと主人が女房に目食わせをした。女房は銚子を忙しげに受け取って、女中に「用があればベルを鳴らすよ、ちりんちりんを鳴らすよ、あっちへ行ってお出」と云っ・・・ 森鴎外 「鼠坂」
出典:青空文庫