・・・堤はどの辺かと思う時、車掌が大倉別邸前といったので、長命寺はとうに過ぎて、むかしならば須崎村の柳畠を見おろすあたりである事がわかった。しかし柳畠にはもう別荘らしい門構もなく、また堤には一本の桜もない。両側に立ち続く小家は、堤の上に板橋をかけ・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・むかし土手の下にささやかな門をひかえた長命寺の堂宇も今はセメント造の小家となり、境内の石碑は一ツ残らず取除かれてしまい、牛の御前の社殿は言問橋の袂に移されて人の目にはつかない。かくの如く向嶋の土手とその下にあった建物や人家が取払われて、その・・・ 永井荷風 「水のながれ」
・・・中略三囲の鳥居前より牛ノ御前長命寺の辺までいと盛りに白鬚梅若の辺まで咲きに咲きたり。側は漂渺たる隅田の川水青うして白帆に風を孕み波に眠れる都鳥の艪楫に夢を破られて飛び立つ羽音も物たるげなり。待乳山の森浅草寺の塔の影いづれか春の景色ならざる。・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・突然耳元ちかく女の声がしたので、その方を見ると、長命寺の門前にある掛茶屋のおかみさんが軒下の床几に置いた煙草盆などを片づけているのである。土間があって、家の内の座敷にはもうランプがついている。 友達がおかみさんを呼んで、一杯いただきたい・・・ 永井荷風 「雪の日」
出典:青空文庫