・・・それもそのはずで、読む手紙も読む手紙もことごとく長崎より横須賀より、または品川よりなど、初めからそんなのばかり撰んで持ち合ったのだから、一として彼らの情事に関しないものはない、ことごとく罰杯を命ずべき品物である。かれこれするうち、自分の向か・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・昼は昼食、夜は一泊、行くさきざきの縁故のある寺でそれを願って行って、西は遠く長崎の果までも旅したという。その足での帰りがけに、以前の小竹の店へも訪ねて来たことがある。その頃はお三輪の母親もまだ達者、彼女とても女のさかりの年頃であったから、何・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・父が長崎の県知事をしていたときに、招かれて、こちらの区長に就任したのでございますが、それは、ちょうど私が十二の夏のことで、母も、その頃は存命中でありました。父は、東京の、この牛込の生れで、祖父は陸中盛岡の人であります。祖父は、若いときに一人・・・ 太宰治 「誰も知らぬ」
・・・ シロオテは、長崎へ護送された。伴天連らしきものとして長崎の獄舎に置かれたのである。しかし、長崎の奉行たちは、シロオテを持てあましてしまった。阿蘭陀の通事たちに、シロオテの日本へ渡って来たわけを調べさせたけれど、シロオテの言葉が日本語の・・・ 太宰治 「地球図」
・・・卒業後長崎三菱造船所に入って実地の修業をした後、三十四年に帰京して大学院に入り、同時に母校の講師となった。その当時理科大学物理学科の聴講生となって長岡博士その他の物理学に関する講義に出席した。翌三十五年助教授となり、四十二年応用力学研究のた・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・となったことを誌した中に、「木薬屋呉服屋の若い者に長崎の様子を尋ね」という文句がある。「竜の子」を二十両で買ったとか「火喰鳥の卵」を小判一枚で買ったとかいう話や、色々の輸入品の棚ざらえなどに関する資料を西鶴が蒐集した方法が、この簡単な文句の・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・昔長崎を見物した時に見た露文の看板の記憶が甦って来るのを感じた。 とある町角で妙な現象を見た。それは質屋で質流れの衣類の競売をしている光景らしく判断された。みんな慾の深そうな顔をした婆さんや爺さんが血眼になって古着の山から目ぼしいのを握・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・ 新しもの好き、珍しいもの好きで、そしてそれを得るためには、昔の不便な時代に遥々長崎まで行くだけの熱心があったから、今の世に生れたら、あるいは相当な科学者になったかもしれない。そして結局何かしら不祥な問題でも起してやはり汚名を後生に残し・・・ 寺田寅彦 「断片(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・カステラや鴨南蛮が長崎を経て内地に進み入り、遂に渾然たる日本的のものになったと同一の実例であろう。 自分はいつも人力車と牛鍋とを、明治時代が西洋から輸入して作ったものの中で一番成功したものと信じている。敢て時間の経過が今日の吾人をして人・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・ やがて船が長崎につくと、薄紫地の絽の長い服を着た商人らしい支那人が葉巻を啣えながら小舟に乗って父をたずねに来た。その頃長崎には汽船が横づけになるような波止場はなかった。わたくしは父を訪問しに来た支那人が帰りがけに船梯子を降りながら、サ・・・ 永井荷風 「十九の秋」
出典:青空文庫