・・・婆さんは長火鉢を前に三毛を膝へ乗せて居眠りをしている。辰さんは小声で義太夫を唸りながら、あらの始末をしている。女中部屋の方では陽気な笑声がもれる。戸外の景色に引きかえて此処はいつものように平和である。 嵐の話になって婆さんは古い記憶の中・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・ それはとにかく、この振り出し薬の香をかぐと昔の郷里の家の長火鉢の引き出しが忽然として記憶の水準面に出現する。そうして、その引き出しの中には、もぐさや松脂の火打ち石や、それから栓抜きのねじや何に使ったかわからぬ小さな鈴などがだらしもなく・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・二 おひろの家へ行ってみると、久しく見なかったおひろの姉のお絹が、上方風の長火鉢の傍にいて、薄暗いなかにほの白いその顔が見えた。涼しい滝縞の暖簾を捲きあげた北国特有の陰気な中の間に、著物を著かえているおひろの姿も見えた。・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・大きな如輪の長火鉢の傍にはきまって猫が寝ている。襖を越した次の座敷には薄暗い上にも更に薄暗い床の間に、極彩色の豊国の女姿が、石州流の生花のかげから、過ぎた時代の風俗を見せている。片隅には「命」という字を傘の形のように繋いだ赤い友禅の蒲団をか・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・わたくしは梯子段を上りかけた時、そっと奥の間をのぞいて見ると、箪笥、茶ぶ台、鏡台、長火鉢、三味線掛などの据置かれた様子。さほど貧苦の家とも見えず、またそれほど取散らされてもいない。二階は三畳の間が二間、四畳半が一間、それから八畳か十畳ほどの・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・四畳半には長火鉢、箪笥が二棹と机とが置いてある。それで、阿久と、お袋と、阿久の姉と四人住んでいるのである。その家へある日私の友達を十人ばかり招いて酒宴を催したのである。先ず縁側に呉座を敷いた。四畳半へは毛布を敷いた。そして真中に食卓を据・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・見ると御母さんが、今起き立の顔をして叮嚀に如鱗木の長火鉢を拭いている。「あら靖雄さん!」と布巾を持ったままあっけに取られたと云う風をする。あら靖雄さんでも埓があかん。「どうです、よほど悪いですか」と口早に聞く。 犬の遠吠が泥棒の・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 次の間の長火鉢で燗をしながら吉里へ声をかけたのは、小万と呼び当楼のお職女郎。娼妓じみないでどこにか品格もあり、吉里には二三歳の年増である。「だッて、あんまりうるさいんだもの」「今晩もかい。よく来るじゃアないか」と、小万は小声で・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・壁によせて長火鉢が置いてあるが、小さい子が三人並ぶゆとりはたっぷりある。柿の花が散る頃だ。雨は屡々降ったと思う。余り降られると、子供等の心にも湿っぽさが沁みて来る。ぼんやり格子に額を押しつけて、雨水に浮く柿の花を見ている。いつまでも雨が降り・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・髪をひきつめにして、絣の着物をきて、長火鉢のわきにすわっている。そして、むかいあいの対手に、熱心に話している。その顔が、横から夜間のフラッシュで撮されているのであった。興奮して、口を尖らかすようにしているその女の顔は、美しくない。せっぱつま・・・ 宮本百合子 「ある回想から」
出典:青空文庫