・・・あばれる子熊の横顔へ防寒長靴をはいた人間の足がいくつも飛んで来る。これも人間の立場からは当然であろう。やがて魂の抜けた親熊の死骸が甲板につりおろされると、子熊はいきなり飛びついて母の首筋に食らいついて引きずり出そうとするような態度を見せる。・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・岡田さんはわざわざ長靴を穿いて見えたのであります。そう云った身拵えで、早稲田の奥まで来て下すって、例の講演は十一月の末まで繰り延ばす事にしたから約束通りやってもらいたいというご口上なのです。私はもう責任を逃れたように考えていたものですから実・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
私は行李を一つ担いでいた。 その行李の中には、死んだ人間の臓腑のように、「もう役に立たない」ものが、詰っていた。 ゴム長靴の脛だけの部分、アラビアンナイトの粟粒のような活字で埋まった、表紙と本文の半分以上取れた英訳・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・左の足には磨り切れた、控鈕留の漆塗の長靴を穿いている。その左の方を脱いで、冷たいのも感ぜぬらしく、素足を石畳の上に載せた。それから靴の中底を引き出した。それから靴の踵に填めてある、きたない綿を引き出した。綿には何やらくるんである。それを左の・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・乗ってるものはみな赤シャツで、てかてか光る赤革の長靴をはき、帽子には鷺の毛やなにか、白いひらひらするものをつけていた。鬚をはやしたおとなも居れば、いちばんしまいにはペムペル位の頬のまっかな眼のまっ黒なかあいい子も居た。ほこりの為にお日さまは・・・ 宮沢賢治 「黄いろのトマト」
・・・ だんだん近付いて見ると、一人のせいの高い、ひどい近眼鏡をかけ、長靴をはいた学者らしい人が、手帳に何かせわしそうに書きつけながら、鶴嘴をふりあげたり、スコープをつかったりしている、三人の助手らしい人たちに夢中でいろいろ指図をしていました・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ ブリッジへ出て両手でわきの棒へつかまり、のり出して後部を見わたしたら、深い雪の中へ焚火がはじまっている。長靴はいて緑色制帽をかぶった列車技師が、しきりに一台の車の下をのぞいて指図している。棒材がなげ出してある。真黒い鉄の何かを運んで来・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・雨になって直ぐ縮むような縮緬の服をつくるより、麻のワンピース、木綿の着物、雨が降っても大丈夫な長靴が欲しいし、そういう生活の役に立つ服装がすべての人に余り差別なく出来るようでありたいと思う。私たちが衣服についてもつ希望や要求はこんなに遠大な・・・ 宮本百合子 「衣服と婦人の生活」
・・・石田が長靴を脱ぐと、爺さんは長靴も一しょに持って先に立った。 石田は爺さんに案内せられて家を見た。この土地の家は大小の違があるばかりで、どの家も皆同じ平面図に依って建てたように出来ている。門口を這入って左側が外壁で、家は右の方へ長方形に・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・「長靴がひとり雪の中をごそごそと歩いていた。」とゴルキーが答えた。「うむ、それは性欲から来ているね。」と、いきなりトルストイは解答を与えた。 何ぜか、これは少し興味がある。 恐い夢 私は歯の抜ける夢をしばし・・・ 横光利一 「夢もろもろ」
出典:青空文庫