・・・ 政元より後に飯綱の法を修した人には面白い人がある。それは政元よりも遥に立派な人である。 関白、内大臣、藤原氏の氏の長者、従一位、こういう人が飯綱の法を修したのである。太政大臣公相は外法のために生首を取られたが、この人は天文から文禄・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・上は摂政関白武将より下は士農工商あらゆる階級の間に行なわれ、これらの人々の社会人としての活動生活の侶伴となってそれを助け導いて来たと思われる。風雅の心のない武将は人を御することも下手であり、風雅の道を解しない商人はおそらく金もうけも充分でな・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・その年のうちにも三月二十八日に閑院大納言、四月十日には中関白。小一條左大将済時卿は四月二十三日、六條左大臣、粟田右大臣、桃園中納言保光卿は、三人とも五月八日一度に死んだ。山井大納言は六月十一日に亡き人となった。斯那ことは又となかろう。大臣公・・・ 宮本百合子 「余録(一九二四年より)」
・・・おれは関白師実じゃ」 厨子王は言った。「わたくしは陸奥掾正氏というものの子でございます。父は十二年前に筑紫の安楽寺へ往ったきり、帰らぬそうでございます。母はその年に生まれたわたくしと、三つになる姉とを連れて、岩代の信夫郡に住むことになり・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・兼良は応永九年の生まれで、応永時代の代表者としては少しく遅いが、しかしそれでも応永の末には右大臣、永享四年には関白となっている。この時にはすぐにやめたが、十五年後四十五歳の時にふたたび関白太政大臣となり、さらに六十五歳の時三度関白となった。・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫