・・・鰌髭をはやし、不潔な陋屋の臭いが肉体にしみこんでいる。垢に汚れた老人だ。通訳が、何か、朝鮮語で云って、手を動かした。腰掛に坐れと云っていることが傍にいる彼に分った。だが鮮人は、飴のように、上半身をねち/\動かして、坐ろうとしなかった。「・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・翌る日、眼光鋭く、気品の高い老紳士が私の陋屋を訪れた。「小坂です。」「これは。」と私は大いに驚き、「僕のほうからお伺いしなければならなかったのに。いや。どうも。これは。さあ。まあ。どうぞ。」 小坂氏は部屋へあがって、汚い畳にぴた・・・ 太宰治 「佳日」
・・・その紙に書かれてある戦地風景は、私が陋屋の机に頬杖ついて空想する風景を一歩も出ていない。新しい感動の発見が、その原稿の、どこにも無い。「感激を覚えた。」とは、書いてあるが、その感激は、ありきたりの悪い文学に教えこまれ、こんなところで、こんな・・・ 太宰治 「鴎」
・・・れいの、北さんと中畑さんとが、そろって三鷹の陋屋へ訪ねて来られた。そうして、故郷の母が重態だという事を言って聞かせた。五、六年のうちには、このような知らせを必ず耳にするであろうと、内心、予期していた事であったが、こんなに早く来るとは思わなか・・・ 太宰治 「故郷」
・・・おとといの晩はめずらしいお客が三人、この三鷹の陋屋にやって来ることになっていたので、私は、その二三日まえからそわそわして落ちつかなかった。一人は、W君といって、初対面の人である。いやいや、初対面では無い。お互い、十歳のころに一度、顔を見合せ・・・ 太宰治 「酒ぎらい」
・・・夜、戸石君と二人で、三鷹の陋屋に訪ねて来たのが、最初であったような気がする。戸石君に聞き合せると更にはっきりするのであるが、戸石君も已に立派な兵隊さんになっていて、こないだも、「三田さんの事は野営地で知り、何とも言えない気持でした。桔梗・・・ 太宰治 「散華」
(わが陋屋には、六坪ほどの庭があるのだ。愚妻は、ここに、秩序も無く何やらかやら一ぱい植えたが、一見するに、すべて失敗の様子である。それら恥ずかしき身なりの植物たちが小声で囁き、私はそれを速記する。その声が、事実、聞えるのであ・・・ 太宰治 「失敗園」
・・・ 昨年の九月、僕の陋屋の玄関に意外の客人が立っていた。草田惣兵衛氏である。「静子が来ていませんか。」「いいえ。」「本当ですか。」「どうしたのです。」僕のほうで反問した。 何かわけがあるらしかった。「家は、ちらかっ・・・ 太宰治 「水仙」
・・・あいつのために、おれは牢へいれられたと、うらみ骨髄に徹して、牢から出たとき、草の根をわけても、と私を捜しまわり、そうして私の陋屋を、焼き払い、私たち一家のみなごろしを企てるかもわからない。よくあることだ。私は、そのときのことを懸念し、僕は、・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・芸術の花うかびたる小川の流れの起伏を知らない。陋屋の半坪の台所で、ちくわの夕食に馴れたる盲目の鼠だ。君には、ひとりの良人を愛することさえできなかった。かつて君には、一葉の恋文さえ書けなかった。恥じるがいい。女体の不言実行の愛とは、何を意味す・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
出典:青空文庫