・・・と、妻は僕に陰口を言ったが、「奥さん、奥さん」と言われていれば、さほど憎くもない様子だ。いろいろうち解けた話もしていれば、また二人一緒になって、僕の悪口――妻のは鋭いが、吉弥のは弱い――を、僕の面前で言っていた。「長くここへ来ている・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・それを考えてくれたら、鼻の上に汗をためて――そんな陰口は利けなかった筈だ。 その写真の人は眼鏡を掛けていたのだ。と言ってもひとにはわかるまい。けれど、とにかく私にとっては、その人は眼鏡を掛けていたのだ。いや、こんな気障な言い方はよそう。・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・けれども、私から見れば、そんな陰口は、必ずしも当を得ているとは思えなかった。大隅君は、不勉強な私たちに較べて、事実、大いに博識だったのである。博識の人が、おのれの知識を機会ある毎に、のこりなく開陳するというのは、極めて自然の事で、少しも怪し・・・ 太宰治 「佳日」
・・・私は友の陰口を言ったことさえない。昨夜、床の中で、じっとして居ると、四方の壁から、ひそひそ話声がもれて来る。ことごとく、私に就いての悪口である。ときたま、私の親友の声をさえ聞くのである。私を傷つけなければ、君たちは生きて行けないのだろうね。・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・私は、それまで二年、あなたと暮して、あなたが人の陰口をたたいたのを伺った事が一度もありませんでした。何先生は、どうだって、あなたは唯我独尊のお態度で、てんで無関心の御様子だったではありませんか。それに、そんなお喋りをして、前夜は、あなたに何・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・そのような無智な陰口が、微風と共に、ひそひそ私の耳にはいって来る。私は、その度毎に心の中で、強く答える。僕は、はじめから俗物だった。君には、気がつかなかったのかね。逆なのである。文学を一生の業として気構えた時、愚人は、かえって私を組し易しと・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・七ツ、八ツのころより私ずいぶんわびしく、客間では毎夜、祖母をかしらに、母、それから親戚のもの二、三ちらほら、夏と冬には休暇の兄や姉、ときどき私の陰口たたいて、私が客間のまえの廊下とおったときに、「いまから、あんなにできるのは、中学、大学へは・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・求めもせぬに、私に、とめどなき告白したる十数人の男女、三つき経ちて、必ず私を悪しざまに、それも陰口、言いちらした。いままでお世辞たらたら、厠に立ちし後姿見えずなるやいな、ちえっ! と悪魔の嘲笑。私は、この鬼を、殴り殺した。 私の辞書・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・ ああやって、あんなしなびた様な花さえ賞めて居るお君が、同じ口で、どれほど自分の陰口をするのか分らないと思うと、半分は自分で意識しなずに、高い声で、 親子ほど有難いものはないねえ、 親のくれたものだと思うと、袂糞でもおがむだ・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 小僧ゴーリキイは「そんな時には、店から駈け出して行って、婦人客に追い縋り、彼等についての陰口をぶちまけてやりたい心持に駆り立てられる」のであった。 三人の者が、心に激しい猜みを抱いて暮していて誰のことでも、何か悪いところしか拾い出・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫