・・・その時分から妙に電車の乗客の顔が不愉快に陰鬱にあるいは険悪に見え出したのである。そして色々な事を考えてみた。あまり確実な事は云われないが、西洋の電車ではこんな心持のした事はなかったように思う。勿論疲れた眠い顔や、中にはずいぶん緊張した顔もあ・・・ 寺田寅彦 「電車と風呂」
・・・灰色の壁と純白な窓掛けとで囲まれたきりで、色彩といえばただ鈍い紅殻塗りの戸棚と、寝台の頭部に光る真鍮の金具のほかには何もない、陰鬱に冷たい病室が急にあたたかくにぎやかになった。宝石で作ったような真紅のつぼみとビロードのようにつやのある緑の葉・・・ 寺田寅彦 「病室の花」
・・・竹藪は乱伐の為めに大分荒廃して居るが、それでも庭からそこらを陰鬱にして居る。おっつあんというのはおじさんでもなく又おとっつあんでもない。其処には敬称と嘲侮との意味を含んで居る。いつが起りということもなくもう久しい以前からそうなって畢った。彼・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・小学校から中学校へかけ、学生時代の僕の過去は、今から考えてみて、僕の生涯の中での最も呪わしく陰鬱な時代であり、まさしく悪夢の追憶だった。 こうした環境の事情からして、僕は益々人嫌いになり、非社交的な人物になってしまった。学校に居る時は、・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・ 道は沼に沿うて、蛇のように陰鬱にうねっていた。その道の上を、生きた人魂のように二人は飛んでいた。 沼の表は、曇った空を映して腐屍の皮膚のように、重苦しく無気味に映って見えた。 やがて道は墓地の辺にまで、二人の姿を吹くように導い・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ ――この上に、無限に高い空と、突っかかって来そうな壁の代りに、屋根や木々や、野原やの――遙なる視野――があればなあ、と私は淋しい気持になった。 陰鬱の直線の生活! 監獄には曲線がない。煉瓦! 獄舎! 監守の顔! 塀! 窓! 窓・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・或時は、俄に山巓を曇らせて降り注ぐ驟雨に洗われ、或時はじめじめと陰鬱な細雨に濡れて、夏の光輝は何時となく自然の情景の裡から消去ったようにさえ見えます。瑞々しい森林は緑に鈍い茶褐色を加え、雲の金色の輪廓は、冷たい灰色に換ります。そして朝から晩・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・ はる子は陰鬱になり、圭子が見ないようにその手紙を裂きすてた。千鶴子が、自分に対する複雑な反感を潔よく現し、真直罵るなり何なりしたら、却って心持よかったとはる子は遺憾に思った。千鶴子は圭子に向ってそのように激しつつも、はる子に対しては、・・・ 宮本百合子 「沈丁花」
・・・また、作者自身が、賢く第三者の評言をうけいれて、そのマイナスの意味をもつ特徴は自分が育って今も住んでいる東北地方の陰鬱な風土の影響であろうと自省しているところに、この問題を真に文学上発展させるモメントの全部があるとも考えられない。 なぜ・・・ 宮本百合子 「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」
・・・ 軽くふざけ「陰鬱な文学をおやりになるんですね」 自分「陰鬱って――この頃のなんか」「ああ元気な健康な文学です」「すべて美でも極度にゆけばやや陰鬱ですよ。ナナだって――フランスの情熱だって燃えれば」「ええモウパッ・・・ 宮本百合子 「一九二七年春より」
出典:青空文庫