・・・実際僕は久しぶりに、旅愁も何も忘れながら、陶然と盃を口にしていた。その内にふと気がつくと、誰か一人幕の陰から、時々こちらを覗くものがある。が、僕はそちらを見るが早いか、すぐに幕の後へ隠れてしまう。そうして僕が眼を外らせば、じっとまたこちらを・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・ 一帆はしばらくして陶然とした。「更めて、一杯、お知己に差上げましょう。」「極が悪うござんすね。」「何の。そうしたお前さんか。」 と膝をぐったり、と頭を振って、「失礼ですが、お住所は?」「は、提灯よ。」 と目・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・晩食には湖水でとれた鯉の洗いを馳走してくれ、美人の唇もむろん昼ほどは固くなく、予は愉快な夢を見たあとのような思いで陶然として寝についた。 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・なお、文楽で科白が地の文に融け合う美しさに陶然としていたので会話をなるべく地の文の中に入れて、全体のスタイルを語り物の形式に近づけた。更に言えば、戯曲の一幕はたいてい三十分か一時間を克明にうつすので時間的に窮屈極まる。そこで、小説では場面場・・・ 織田作之助 「わが文学修業」
・・・と主人は陶然とした容子で細君の労を謝して勧めた。「はい、有り難う。」と手短に答えたが、思わず主人の顔を見て細君はうち微笑みつつ、「どうも大層いいお色におなりなさいましたね、まあ、まるで金太郎のようで。」と真に可笑そうに云・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・あなたの光に陶然と酔って、地上の事を忘れていたのを。」ゼウスは其の時やさしく言った。「どうすればいい? 地球はみんな呉れてしまった。秋も、狩猟も、市場も、もう俺のものでない。お前が此の天上に、俺といたいなら時々やって来い。此所はお前の為に空・・・ 太宰治 「心の王者」
・・・ただ春の日永の殿上の欄にもたれて花散る庭でも眺めているような陶然とした心持になった。 すべての音楽がそうであるか、どうか、私には分らない。しかし、どうもこの管弦楽というものは、客観的分析的あるいは批評的に聴くべきものではなくて、ただこの・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 唖々子の戯るるが如く、わたしはやがて女中に会計なるものを命じて、倶に陶然として鰻屋の二階を下りると、晩景から電車の通らない築地の街は、見渡すかぎり真白で、二人のさしかざす唐傘に雪のさらさらと響く音が耳につくほど静であった。わたしは一晩・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・『いでゆ』のねらう所は恐らく温泉のとろけるように陶然とした心持ちであろう。清らかに澄んだ湯に脚をひたして湯槽の端に腰をかけている女の、肉付きのいい肌の白い後ろ姿が、ほの白い湯気の内にほんのりと浮き出ている。その融けても行きそうな体は、裸に釣・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫