・・・ それも心細く、その言う処を確めよう、先刻に老番頭と語るのをこの隠れ家で聞いたるごとく、自分の居処を安堵せんと欲して、立花は手を伸べて、心覚えの隔ての襖に触れて試た。 人の妻と、かかる術して忍び合うには、疾く我がためには、神なく、物・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・信乃が滸我へ発足する前晩浜路が忍んで来る一節や、荒芽山の音音の隠れ家に道節と荘介が邂逅する一条や、返璧の里に雛衣が去られた夫を怨ずる一章は一言一句を剰さず暗記した。が、それほど深く愛誦反覆したのも明治二十一、二年頃を最後としてそれから以後は・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・彼女は娘のお新と共に――四十の歳まで結婚させることも出来ずに処女で通させて来たような唯一人の不幸なお新と共に最後の「隠れ家」を求めようとするより外にはもう何等の念慮をも持たなかった。 このおげんが小山の家を出ようと思い立った頃は六十の歳・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ 間もなく三人は先生一人をこの隠れ家に残して置いて、町の方へ帰って行った。学士がユックリユックリ歩くので他の二人は時々足を停めて待合わせては復たサッサと歩いた。「しかし、女でも何でも働くところですネ」と子安は別れ際に高瀬に言った。・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・死ぬにも隠れ家を求めなければならぬ。そうだ、隠れ家……。どんなところでもいい。静かな処に入って寝たい、休息したい。 闇の路が長く続く。ところどころに兵士が群れを成している。ふと豊橋の兵営を憶い出した。酒保に行って隠れてよく酒を飲んだ。酒・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ 例えば殺人罪を犯した浪人の一団の隠れ家の見当をつけるのに、目隠しされてそこへ連れて行かれた医者がその家で聞いたという琵琶の音や、ある特定の日に早朝の街道に聞こえた人通りの声などを手掛りとして、先ず作業仮説を立て、次にそのヴェリフィケー・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
生活上のある必要から、近い田舎の淋しい処に小さな隠れ家を設けた。大方は休日などの朝出かけて行って、夕方はもう東京の家へ帰って来る事にしてある。しかしどうかすると一晩くらいそこで泊るような必要が起るかもしれな・・・ 寺田寅彦 「石油ランプ」
・・・朝まだ暗いうちに旧城の青苔滑らかな石垣によじ上って鈴虫の鳴いている穴を捜し、火吹竹で静かにその穴を吹いていると、憐れな小さな歌手は、この世に何事が起ったかを見るために、隠れ家の奥から戸口に匍いだしてくる。それを待構えた残忍な悪太郎は、蚊帳の・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・ 四 侵入者 郊外の田舎にわずかな地面を求めて、休日ごとにいい空気を吸って頭を養うための隠れ家を作った。あき地には草花でも作って一面の花園にして見ようという美しい夢を見ていたが、これはほんとうの夢である事がじきにわか・・・ 寺田寅彦 「路傍の草」
・・・強いてその複雑なるものを求めんか、鶯や柳のうしろ藪の前つゝじ活けて其陰に干鱈さく女隠れ家や月と菊とに田三反等の数句に過ぎざるべし。蕪村の句の複雑なるはその全体を通じてしかり。中につきて数句を挙ぐれば草霞み水に・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
出典:青空文庫