・・・一時にある事に自分の注意を集中した場合に、ほとんど寝食を忘れてしまう。国事にでもあるいは自分の仕事にでも熱中すると、人と話をしていながら、相手の言うことが聞き取れないほど他を顧みないので、狂人のような状態に陥ったことは、私の知っているだけで・・・ 有島武郎 「私の父と母」
・・・今なら女優というような眩しい粉黛を凝らした島田夫人の美装は行人の眼を集中し、番町女王としての艶名は隠れなかった。良人沼南と同伴でない時はイツデモ小間使をお伴につれていたが、その頃流行した前髪を切って前額に垂らした束髪で、嬌態を作って桃色の小・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 日本の文壇というものは、一刀三拝式の心境小説的私小説の発達に数十年間の努力を集中して来たことによって、小説形式の退歩に大いなる貢献をし、近代小説の思想性から逆行することに於ては、見事な成功を収めた。 人間の努力というものは奇妙なも・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・形而上的なものを追おうとしていた眼と、強そうな両手は、注意力を老人の背後の一点に集中した。 老人はびく/\動いた。 氷のような悪寒が、電流のように速かに、兵卒達の全身を走った。彼等は、ヒヤッとした。栗島は、いつまでも太股がブル/\慄・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ そして、相手がこちらの手を握りかえす、そのかえしようと、眼に注意を集中しているのであった。 彼等のうちのある者は、相手が自分の要求するあるものを与えてくれる、とその眼つきから読んだ。そして胸を湧き立たせた。「よし、今日は、ひと・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・一時に、皆の注意はその方に集中した。「待て、待て! 何だろう?」 彼は、ローソクの傍に素早く紙片を拡げて、ひっくりかえしてみた。「××か?」「ちがう。学校の先生がかゝした子供の手紙だ! チッ!」 その時、扉が軋って、・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・ 彼等の銃剣は、知らず知らず、彼等をシベリアへよこした者の手先になって、彼等を無謀に酷使した近松少佐の胸に向って、奔放に惨酷に集中して行った。 雪の曠野は、大洋のようにはてしなかった。 山が雪に包まれて遠くに存在している。しかし・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・私は、人知れず全身の注意を、その会話に集中させた。この家族は、都会の人たちらしい。私と同様に、はじめて佐渡へやって来た人たちに違いない。「佐渡ですよ。」と父は答えた。 そうか、と私は少女と共に首肯いた。なおよく父の説明を聞こうと思っ・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・その頃日本では、南方へ南方へと、皆の関心がもっぱらその方面にばかり集中せられていたのであるが、私はその正反対の本州の北端に向って旅立った。自分の身も、いつどのような事になるかわからぬ。いまのうちに自分の生れて育った津軽を、よく見て置こうと思・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・つまり、そんな絵がはいっていると、その財布を落さないように、しじゅう気をつけるようになるし、すべての注意力をお財布に集中させて置くようにとの、つつましく厳粛な心から、あの絵を一枚入れて置くのだ。決して、浮いた、みだらな心からでは無いのだ。財・・・ 太宰治 「春の盗賊」
出典:青空文庫