・・・赤坊はいんちこの中で章魚のような頭を襤褸から出して、軒から滴り落ちる雨垂れを見やっていた。彼れの気分にふさわない重苦しさが漲って、運送店の店先に較べては何から何まで便所のように穢かった。彼は黙ったままで唾をはき捨てながら馬の始末をするとすぐ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・小雨の雨垂れのようにその言葉は、清く、小さく鋭く、クララの心をうった。「何よりもいい事は心の清く貧しい事だ」 独語のようなささやきがこう聞こえた。そして暫らく沈黙が続いた。「人々は今のままで満足だと思っている。私にはそうは思えな・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 積っていた雪は解け、雨垂れが、絶えず、快い音をたてて樋を流れる。 吉永の中隊は、イイシに分遣されていた。丘の上の木造の建物を占領して、そこにいる。兵舎の樋から落ちた水は、枯れた芝生の間をくぐって、谷間へ小さな急流をなして流れていた・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・雨の日には縁側に乳母車があがって、古下駄が雨垂れに濡れている。家の中までは見えぬがきたなさは想像が出来る。細君からして随分こんな事には無頓着な人だと見える。どうせあんな異人さんのおかみさんになるくらいの人だからと下宿の主婦は説明していたそう・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・そういう時に軒の雨垂れを聞きながら静かに浴槽に浸っている心持は、およそ他に比較するもののない閑寂で爽快なものである。そういう日が年のうちに一日あることもあり、ないこともあるような気がする。そうだとすると生命のあるうちにそういう稀有な日を出来・・・ 寺田寅彦 「五月の唯物観」
・・・それは畑の豆の木の下や、林の楢の木の根もとや、又雨垂れの石のかげなどに、それはそれは上手に可愛らしくつくってあるのです。 さて三十疋は、毎日大へん面白くやっていました。朝は、黄金色のお日さまの光が、とうもろこしの影法師を二千六百寸も遠く・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・ 苔の厚い庭土にしとしとと染み込む雨足だの、ポトーリポトーリと長閑らしく落ちる雨垂れの音などに気がまとめられて、手の先から足の爪先まで張り切った力でまるで、我を忘れた気持で仕事をしつづけて居た。 嬉しさに胸がドキドキする様であった。・・・ 宮本百合子 「二十三番地」
・・・ 屋根の虫が鳴くぞよ。」 灸は柱に頬をつけて歌を唄い出した。蓑を着た旅人が二人家の前を通っていった。屋根の虫は丁度その濡れた旅人の蓑のような形をしているに相違ないと灸は考えた。 雨垂れの音が早くなった。池の鯉はどうしているか・・・ 横光利一 「赤い着物」
出典:青空文庫