・・・実は一千年の間は地へ落ちない。しかしある寂しい朝、運命は一羽の八咫鴉になり、さっとその枝へおろして来た。と思うともう赤みのさした、小さい実を一つ啄み落した。実は雲霧の立ち昇る中に遥か下の谷川へ落ちた。谷川は勿論峯々の間に白い水煙をなびかせな・・・ 芥川竜之介 「桃太郎」
・・・でも人間、雲霧を払った気持だ。そして、赤合羽の坊主の形もちらつかぬ。やがて忘れてな、八時、九時、十時と何事もなく課業を済まして、この十一時が読本の課目なんだ。 な、源助。 授業に掛って、読出した処が、怪訝い。消火器の説明がしてある、・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ その癖雲霧が立籠めて、昼も真暗だといいました、甲州街道のその峰と申しますのが、今でも爺さんが時々お籠をするという庵がございますって。そこは貴方、府中の鎮守様の裏手でございまして、手が届きそうな小さな丘なんでございますよ。もっとも何千年・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・「面目ない、われら、ここに、高い貴い処に恋人がおわしてな、雲霧を隔てても、その御足許は動かれぬ。や!」 と、慌しく身を退ると、呆れ顔してハッと手を拡げて立った。 髪黒く、色雪のごとく、厳しく正しく艶に気高き貴女の、繕わぬ姿したの・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・七十七回、一顆の智玉、途に一騎の驕将を懲らすといふ一段を五行或は四行の大字にものしぬるに字行もシドロモドロにて且墨の続かぬ処ありて読み難しと云へば其を宅眷に補はせなどしぬるほどに十一月に至りては宛がら雲霧の中に在る如く、又朧月夜に立つに似て・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ 往々雨の丘より丘に移るに当たりて、あるいは近くあるいは遠く、あるいは幽くあるいは明らかに、というもまた全く同じである、もしそれ雲霧を説いて あるいは黙然遊動して谷より谷に移るもの、往々にして動かざる自然を動かし、変・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・日も暮るるに近き頃、辛くして頂に至りしが、雲霧大に起りて海の如くになり、鳥居にかかれる大なる額の三峰山という文字も朧気ならでは見えわかず、袖も袂も打湿りて絞るばかりになりたり。急ぎて先ず社務所に至り宿仮らん由を乞えば、袴つけたる男我らを誘い・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・針の筵に坐った思いとよく人は言うけれども、私は雲霧の筵に坐った思いで、ただぼんやりしているのである。 ことしの夏も、同じことであった。私には三百円、かけねなしには二百七十五円、それだけが必要であったのである。私は貧乏が嫌いなのである。生・・・ 太宰治 「玩具」
・・・ひどく酔って、たちまち、私の頭上から巨大の竜巻が舞い上り、私の足は宙に浮き、ふわりふわりと雲霧の中を掻きわけて進むというあんばいで、そのうちに転倒し、 わたしゃ 売られて行くわいな と小声で呟き、起き上って、また転倒し、世界が自・・・ 太宰治 「酒の追憶」
・・・山々の中腹以下は黄色に代赭をくま取った雲霧に隠れて見えない。すべてが岩絵の具でかいた絵のように明るく美しい色彩をしている。もちろん土佐の山々だろうと思って、子供の時から見慣れたあの峰この峰を認識しようとするが、どうも様子がちがってそれらしい・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
出典:青空文庫