・・・ すると富士前を通り越した頃、電車の中ほどの電球が一つ、偶然抜け落ちてこなごなになった。そこには顔も身なりも悪い二十四五の女が一人、片手に大きい包を持ち、片手に吊り革につかまっていた。電球は床へ落ちる途端に彼女の前髪をかすめたらしかった・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
・・・香ばしいはずの皿も、僕の鼻へは、かの、特に、吉弥が電球に「やまと」の袋をかぶせた時の薄暗い室の、薄暗い肌のにおいを運んで、われながら箸がつけられなかった。 僕の考え込んだ心は急に律僧のごとく精進癖にとじ込められて、甘い、楽しい、愉快だな・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・前方の白樺の木に裸電球がかかっている。にぶいその灯のまわりに、秋の夜明けの寂けさが、暈のように集っていた。しみじみと遠いながめだった。夜露にぬれた道ばたには、高原の秋の花が可憐な色に咲いていた。私はしみじみと秋を感じた。暦ではまだ夏だったが・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・青いシェードを掛けた電球がひとつ、改札口の棚を暗く照らしていた。薄よごれたなにかのポスターの絵がふと眼にはいり、にわかに夜の更けた感じだった。 駅をでると、いきなり暗闇につつまれた。 提灯が物影から飛び出して来た。温泉へ来たのかとい・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・赤い色電球の灯がマダムの薩摩上布の白を煽情的に染めていた。 閉店時間を過ぎていたので、客は私だけだった。マダムはすぐ酔っ払ったが、私も浅ましいゲップを出して、洋酒棚の下の方へはめた鏡に写った顔は仁王のようであった。マダムはそんな私の顔を・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 二 圧搾空気の鉄管にくゝりつけた電球が薄ぼんやりと漆黒の坑内を照している。 地下八百尺の坑道を占領している湿っぽい闇は、あらゆる光を吸い尽した。電燈から五六歩離れると、もう、全く、何物も見分けられない。土と、・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・小さい電球が一つ暗くともって、ただ荒涼。怪力 「あそびに来たのだけどね、」と田島は、むしろ恐怖におそわれ、キヌ子同様の鴉声になり、「でも、また出直して来てもいいんだよ。」「何か、こんたんがあるんだわ。むだには歩かないひと・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・「つかない電球。」「飛ばない飛行機。」「それから、――」「早く、早く。」「真実。」「え?」「真実。」「野暮だなあ。じゃあ、忍耐。」「むずかしいのねえ、私は、苦労。」「向上心。」「デカダン。」「・・・ 太宰治 「秋風記」
・・・今夜は、父が、どうもこんなに電燈が暗くては、気が滅入っていけない、と申して、六畳間の電球を、五十燭のあかるい電球と取りかえました。そうして、親子三人、あかるい電燈の下で、夕食をいただきました。母は、ああ、まぶしい、まぶしいといっては、箸持つ・・・ 太宰治 「燈籠」
・・・式の絶望の終局にしようか、などひどい興奮でわくわくしながら、銭湯の高い天井からぶらさがっている裸電球の光を見上げた時、トカトントン、と遠くからあの金槌の音が聞えたのです。とたんに、さっと浪がひいて、私はただ薄暗い湯槽の隅で、じゃぼじゃぼお湯・・・ 太宰治 「トカトントン」
出典:青空文庫