・・・ と中腰に立って、煙管を突込む、雁首が、ぼっと大きく映ったが、吸取るように、ばったりと紙になる。「消した、お前さん。」 内証で舌打。 霜夜に芬と香が立って、薄い煙が濛と立つ。「車夫。」「何ですえ。」「……宿に、桔・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・この霜夜に、出しがらの生温い渋茶一杯汲んだきりで、お夜食ともお飯とも言い出さぬ。座敷は立派で卓は紫檀だ。火鉢は大きい。が火の気はぽっちり。で、灰の白いのにしがみついて、何しろ暖かいものでお銚子をと云うと、板前で火を引いてしまいました、なんに・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ を繰返し続けたが、だんだんその叫び声が自分ながら霜夜に啼く餓えた野狐の声のような気がされてきて、私はひどく悲しくなってきて、私はそのまま地べたに身体を投げだして声の限り泣きたいと思った。雨戸を蹶飛ばして老師の前に躍りだしてやるか――がその・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・ 落葉を浮かべて、ゆるやかに流るるこの沼川を、漕ぎ上る舟、知らずいずれの時か心地よき追分の節おもしろくこの舟より響きわたりて霜夜の前ぶれをか為しつる。あらず、あらず、ただ見るいつもいつも、物いわぬ、笑わざる、歌わざる漢子の、農夫とも漁人・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・「きりぎりす 啼くや霜夜のさむしろに、ころもかたしき独りかも寝む……」 最早、娘のお新も側には居なかった。おげんは誰も見ていない窓のところに取りすがって、激しく泣いた。 * ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・、暦表を繰って手頃な星を選み出し、望遠鏡の度盛を合わせておいて、クロノメーターの刻音を数えながら目的の星が視野に這入って来るのを待っている、その際どい一、二分間を盗んで吸付ける一服は、ことに凍るような霜夜もようやく更けて、そろそろ腹の減って・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・そして過ぎ去った青春の夢は今幾何の温まりを霜夜の石の床にかすであろうか。 彼はたぶん志を立てた事もあろう。そして今幾何の効果を墓の下に齎そうとしているのであろう。 このような取り止めのない妄想に耽っている間に、老人の淋しい影は何処と・・・ 寺田寅彦 「凩」
・・・この次に見つけたらあれを買って来るのだと思いついた時には、自分をのせた電車はもう水道橋を越えて霜夜の北の空に向かって走っていた。昔のわが家の油絵はどうなったか、それを聞き出す唯一の手がかりはもう六年前になくなった母とともに郷里の久万山の墓所・・・ 寺田寅彦 「青衣童女像」
・・・凍結した霜夜の街を駆け行く人力車の車輪の音――またゴム輪のはまっていなかった車輪が凍てた夜の土と砂利を噛む音は昭和の今日ではもうめったに聞くことの出来ないものになってしまった。 だんだん近付いて来る車の音が宿の前で止まるかと思っていると・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・山霧深うして記号標の芒の中に淋しげなる、霜夜の頃やいかに淋しからん。 これより下り坂となり、国府津近くなれば天また晴れたり。今越えし山に綿雲かゝりて其処とも見え分かず。さきの日国府津にて宿を拒まれようやくにして捜し当てたる町外れの宿に二・・・ 寺田寅彦 「東上記」
出典:青空文庫