・・・かれが耳いよいよさえて四辺いよいよ静寂なり。かれは自己が心のさまをながむるように思いもて四辺を見回しぬ。始めよりかれが恋の春霞たなびく野辺のごとかるべしとは期せざりしもまたかくまでに物さびしく物悲しきありさまになりゆくべしとは青年今さらのよ・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・実に日蓮が闘争的、熱狂的で、あるときは傲慢にして、風波を喜ぶ荒々しき性格であるかのように見ゆる誤解は、この身延の隠棲九年間の静寂と、その間に諸国の信徒や、檀那や、故郷の人々等へ書かれた、世にもやさしく美しく、感動すべき幾多の消息によって、完・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・枯々としたマロニエの並木の間に冬が来ても青々として枯れずに居る草地の眺めばかりは、特別な冬景色ではあったけれども、あの灰色な深い静寂なシャンヌの「冬」の色調こそ彼地の自然にはふさわしいものであった。 久しぶりで東京の郊外に冬籠りした。冬・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
・・・そのような、無限に静寂な、真暗闇に、笠井さんは、いた。 進まなければならぬ。何もわかっていなくても絶えず、一寸でも、五分でも、身を動かし、進まなければならぬ。腕をこまぬいて頭を垂れ、ぼんやり佇んでいようものなら、――一瞬間でも、懐疑と倦・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・無声映画ではただわずかに視覚的に暗示されるに過ぎなかった沈黙と静寂とが発声映画によってはじめて力強い実感として表現されるようになったのである。 それと同時にまた一歩進んで適当な雑音の插入がいっそうこの沈黙の強度を強めることもわかって来た・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・水鶏やほととぎすの鳴き声がいかにも静寂であるのに引きかえて、この人間の咽喉をせんたくする音が、なぜこんなにも不快であるのか、これも不思議である。鳥にはだれも初めから遠慮とか作法とかを期待しない、というせいもあるであろう。また、鳥の生活に全然・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・朝夕に讃美歌の合唱が聞こえて、それがこうした山間の静寂な天地で聞くと一層美しく清らかなものに聞こえた。みんな若い人達で婦人も若干交じっていた。昔自分達が若かった頃のクリスチャンのように妙に聖者らしい気取りが見えなくて感じのいい人達のようであ・・・ 寺田寅彦 「高原」
・・・自分は二歳になる遺児をひざにのせたまま腰をかけてそののりとを聞いていたときに、今まで吹き荒れていた風が突然ないだかのように世の中が静寂になりそうして異常に美しくなったような気がした。山の木立ちも墓地から見おろされるふもとの田園もおりから夕暮・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・夜の闇と静寂とさえもが直に言い知れぬ恐怖の泉となった。之に反して、昭和当代の少年の夢を襲うものは抑も何であろう。民衆主義の悪影響を受けた彼等の胸中には恐怖畏懼の念は影をだも留めず、夢寐の間にも猶忘れざるものは競争売名の一事のみである。聞くと・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・しかしその折にはまだ裏手の通用門から拝観の手続きをなすべき案内をも知らなかったので、自分は秋の夜の静寂の中に畳々として波の如く次第に奥深く重なって行くその屋根と、海のように平かな敷地の片隅に立ち並ぶ石燈籠の影をば、廻らされた柵の間から恐る恐・・・ 永井荷風 「霊廟」
出典:青空文庫