・・・ことの標本ででもあるように、学校は静寂な境に立っていた。 おまけに、明治が大正に変わろうとする時になると、その中学のある村が、栓を抜いた風呂桶の水のように人口が減り始めた。残っている者は旧藩の士族で、いくらかの恩給をもらっている廃吏ばか・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ 運転手がハンドルを握った。静寂が破れて轟音が朝を掻き裂いた。運転手も火夫も、鋭い表情になって、機械に吸い込まれてしまった。 ――遊んでちゃ食えないんだ。だから働くんだ。働いて怪我をしても、働けなくなりゃ食えないんだ!―― 私は・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・これらは感官が静寂になっているからです。水を呑んでも石灰の多い水、炭酸の入った水、冷たい水、又川の柔らかな水みなしずかにそれを享楽することができるのであります。これらは感官が澄んで静まっているからです。ところが感官が荒さんで来るとどこ迄でも・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・四辺の静寂が四箇月ぶりで、彼に温泉のように甘美なものに感じられた。 うっとりとした彼の目には、拭きこんだ硝子越しに、葉をふるい落した冬の欅の優美な細枝が、くっきり青空に浮いているのが見えた。ほんの僅かな白雲が微に流れて端の枝を掠め、次の・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・悲しみの静寂の裡に思い深く二つの音は響く、繰り下げるだけ男は繩を持つ指をゆるめて柩は深い土の底に横わった。 私は土を握って柩の上に入れた。 コトン、ただ一度のその音は私の心をあらいざらいおびやかして行って仕舞った。 もう一つ、母・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・赤っぽい小砂利が綺麗にしきつめられ、遠くの木立まですきとおる静寂が占めている。木立の上で、緑、黄、卵色をよりまぜた有平糖細工みたいなビザンチン式教会のふくらんだ屋根が、アジア的な線でヨーロッパ風な空をつんざいている。 掘割に沿って電車が・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・がらんとした建物じゅうにはびこる無気力な静寂を、震駭させずには置かないという響だ。食事の知らせである。 がっしり天井の低い低い茶っぽい食堂の壁に、夥しく花鳥の額、聯の類が懸っている。棚には、紅釉薬の支那大花瓶が飾ってある。その上、まだ色・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・まことに静寂な清浄な、月の光のような芸である。 偉大なるエレオノラ・デュウゼ。 かの皮肉なバアナアド・ショオをして心からの讃美と狂喜とをなさしめたエレオノラ・デュウゼ。 僕はシモンズ氏によって今少しくこの慕わしい女優の芸術を・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
・・・それは人の心を高きに燃え上がらせながら、しかも永遠なる静寂と安定とに根をおろさせるのである。相重なった屋根の線はゆったりと緩く流れて、大地の力と蒼空の憧憬との間に、軽快奔放にしてしかも荘重高雅な力の諧調を示している。丹と白との清らかな対照は・・・ 和辻哲郎 「偶像崇拝の心理」
・・・そうしてさらに門内に歩み入って、古風な二つの門と、さびた石垣と、お濠と土手とだけでできている静寂な世界の中に立つと、我々の離れて行こうとする世界にもどれほど真実なもの偉大なものがあったかを感ぜずにはいられないであろう。 少し感じは異なる・・・ 和辻哲郎 「城」
出典:青空文庫