・・・――青苔に沁む風は、坂に草を吹靡くより、おのずから静ではあるが、階段に、緑に、堂のあたりに散った常盤木の落葉の乱れたのが、いま、そよとも動かない。 のみならず。――すぐこの階のもとへ、灯ともしの翁一人、立出づるが、その油差の上に差置・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 辻の、この辺で、月の中空に雲を渡る婦の幻を見たと思う、屋根の上から、城の大手の森をかけて、一面にどんよりと曇った中に、一筋真白な雲の靡くのは、やがて銀河になる時節も近い。……視むれば、幼い時のその光景を目前に見るようでもあるし、また夢・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・湖の小波が誘うように、雪なす足の指の、ぶるぶると震えるのが見えて、肩も袖も、その尾花に靡く。……手につまさぐるのは、真紅の茨の実で、その連る紅玉が、手首に珊瑚の珠数に見えた。「ほん、ほん。こなたは、これ。(や、爺と、姉さんと二人して、潟・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・―― 欄干の折れた西の縁の出端から、袖形に地の靡く、向うの末の、雑樹茂り、葎蔽い、ほとんど国を一重隔てた昔話の音せぬ滝のようなのを、猶予らわず潜る時から、お誓が先に立った。おもいのほか、外は細い路が畝って通った。が、小県はほとんど山姫に・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ しかし、硝子を飛び、風に捲いて、うしろざまに、緑林に靡く煙は、我が単衣の紺のかすりになって散らずして、かえって一抹の赤気を孕んで、異類異形に乱れたのである。「きみ、きみ、まだなかなかかい。」「屋根が見えるでしょう――白壁が見え・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 袖も靡く。……山嵐颯として、白い雲は、その黒髪の肩越に、裏座敷の崖の欄干に掛って、水の落つる如く、千仭の谷へ流れた。 その裏座敷に、二人一組、別に一人、一人は旅商人、二人は官吏らしい旅客がいて憩った。いずれも、柳ヶ瀬から、中の河内・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・と、その門前なる二柱のガス燈の昨夜よりも少しく暗きこと、往来のまん中に脱ぎ捨てたる草鞋の片足の、霜に凍て附きて堅くなりたること、路傍にすくすくと立ち併べる枯れ柳の、一陣の北風に颯と音していっせいに南に靡くこと、はるかあなたにぬっくと立てる電・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ 今言ったその運転手台へ、鮮麗に出た女は、南部の表つき、薄形の駒下駄に、ちらりとかかった雪の足袋、紅羽二重の褄捌き、柳の腰に靡く、と一段軽く踏んで下りようとした。 コオトは着ないで、手に、紺蛇目傘の細々と艶のあるを軽く持つ。 ち・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・ 薄暗い陰気な室はどう考えてみても侘しさに耐えかねて巻き煙草を吸うと、青い紫の煙がすうと長く靡く。見つめていると、代々木の娘、女学生、四谷の美しい姿などが、ごっちゃになって、縺れ合って、それが一人の姿のように思われる。ばかばかしいと思わ・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・風が吹けば塀外の柳が靡く。二階に客のない時は大広間の真中へ椅子を持出して、三十疊を一人で占領しながら海を見晴らす。右には染谷の岬、左には野井の岬、沖には鴻島が朝晩に変った色彩を見せる。三時頃からはもう漁船が帰り始める。黒潮に洗われるこの浦の・・・ 寺田寅彦 「嵐」
出典:青空文庫