・・・と云うて長い袖が横に靡く、二人の男は共に床の方を見る。香炉に隣る白磁の瓶には蓮の花がさしてある。昨日の雨を蓑着て剪りし人の情けを床に眺むる莟は一輪、巻葉は二つ。その葉を去る三寸ばかりの上に、天井から白金の糸を長く引いて一匹の蜘蛛が――すこぶ・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・白き兜と挿毛のさと靡くあとに、残るは漠々たる塵のみ。 二 鏡 ありのままなる浮世を見ず、鏡に写る浮世のみを見るシャロットの女は高き台の中に只一人住む。活ける世を鏡の裡にのみ知る者に、面を合わす友のあるべき由なし。・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・長い薄の葉は一面に灰を浴びて濡れながら、靡く。「なるほど」「困ったな、こりゃ」「なあに大丈夫だ。ついそこだもの。あの煙りの出る所を目当にして行けば訳はない」「訳はなさそうだが、これじゃ路が分らないぜ」「だから、さっきから・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ウィリアムの甲の挿毛のふわふわと風に靡く様も写る。日に向けたら日に燃えて日の影をも写そう。鳥を追えば、こだまさえ交えずに十里を飛ぶ俊鶻の影も写そう。時には壁から卸して磨くかとウィリアムに問えば否と云う。霊の盾は磨かねども光るとウィリアムは独・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・高さ三十尺もある孟宗竹の藪が一時に靡く。細かい葉を夢中でり合いつつ絡まり合う。緑の怒濤のように前後左右で吼え沸き立つのはよいとして、異様な動悸を打たせるのは、竹は嫋やかだからその擾乱の様がいやに動的ぽいことだ。濡れて繁茂した竹が房々した大き・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・屋根がトタンだから、風が吹いて雨が靡くとバラバラ、小豆を撒くような音がした。さもなければザッ、ザッ、気味悪くひどい雨音がする。一太は、小学校へ一年行ったぎりで仮名も碌に知らなかった。雑誌などなかったから、一太は寝転んだまま、小声で唐紙を読ん・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・しかしこの若者は柔い草葉の風に靡くように、何事にも強く感動する。そんな時には常蒼い顔に紅が潮して来て、別人のように能弁になる。それが過ぎると反動が来て、沈鬱になって頭を低れ手を拱いて黙っている。 宇平がこの性質には、叔父も文吉も慣れてい・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫