・・・ どうもこの頃は読者も高級になっていますし、在来の恋愛小説には満足しないようになっていますから、……もっと深い人間性に根ざした、真面目な恋愛小説を書いて頂きたいのです。 保吉 それは書きますよ。実はこの頃婦人雑誌に書きたいと思っている小・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・どうか新之丞の命も助けて頂きたい。………「お見舞下さいますか? いかがでございましょう?」 女はこう云う言葉の間も、じっと神父を見守っている。その眼には憐みを乞う色もなければ、気づかわしさに堪えぬけはいもない。ただほとんど頑なに近い・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・なだらかに高低のある畑地の向こうにマッカリヌプリの規則正しい山の姿が寒々と一つ聳えて、その頂きに近い西の面だけが、かすかに日の光を照りかえして赤ずんでいた。いつの間にか雲一ひらもなく澄みわたった空の高みに、細々とした新月が、置き忘れられた光・・・ 有島武郎 「親子」
・・・この山の頂きからあの山の頂きに行かんとして、当然経ねばならぬところの路を踏まずに、一足飛びに、足を地から離した心である。危い事この上もない。目的を失った心は、その人の生活の意義を破産せしめるものである。人生の問題を考察するという人にして、も・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・だしぬけに、あの三人の座敷へ投込んで頂きたいでしゅ。気絶しようが、のめろうが、鼻かけ、歯かけ、大な賽の目の出次第が、本望でしゅ。」「ほ、ほ、大魚を降らし、賽に投げるか。おもしろかろ。忰、思いつきは至極じゃが、折から当お社もお人ずくなじゃ・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 一個洋服の扮装にて煙突帽を戴きたる蓄髯の漢前衛して、中に三人の婦人を囲みて、後よりもまた同一様なる漢来れり。渠らは貴族の御者なりし。中なる三人の婦人等は、一様に深張りの涼傘を指し翳して、裾捌きの音いとさやかに、するすると練り来たれる、・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・わたしのためわたしのためと心配してくださる両親の意に背いては、誠に済まない事と思いますけれど、こればかりは神様の計らいに任せて戴きたい、姉さんどうぞ堪忍してください、わたしの我儘には相違ないでしょうが、わたしはとうから覚悟をきめています。今・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・Yは私の仕事の手伝いをしに大抵毎日、朝から来ては晩まで殆んど一日を私の家で過ごしたが、或る時、「ちょっと故郷へ帰りますから今日ぎり暫らくお暇を戴きたい」といった。 余り突然だったので、故郷に急な用事でも出来たかと訊くと、脚気だといった。・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ゆえに戦い敗れて彼の同僚が絶望に圧せられてその故国に帰り来りしときに、ダルガス一人はその面に微笑を湛えその首に希望の春を戴きました。「今やデンマークにとり悪しき日なり」と彼の同僚はいいました。「まことにしかり」とダルガスは答えました。「しか・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・高い木立の頂きに暁の風は、自然の眠りを醒ます先駆の叫びのように聞かれた。私は世間の多くの人々が、此夜から暁になろうとしている瞬間の自然の景色を、自分の如くこうして外に立って親しく知る者が幾人あろうと考えた。……私は其処に新しい詩材を見出すこ・・・ 小川未明 「ある日の午後」
出典:青空文庫