・・・ 物もいわないで、あの女が前髪のこわれた額際まで、天鵞絨の襟を引かぶったきり、ふるえて泣いてるのでございましょう。 ようよう口を利かせますまでには、大概骨が折れた事じゃアありません。 口説いたり、すかしたり、怨んでみたり、叱った・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 長火鉢の猫板に片肱突いて、美しい額際を抑えながら、片手の火箸で炭を突ッ衝いたり、灰を平したりしていたが、やがてその手も動かずなる。目は瞬きもやんだように、ひたと両の瞳を据えたまま、炭火のだんだん灰になるのを見つめているうちに、顔は火鉢・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・生温く帽を吹く風に、額際から煮染み出す膏と、粘り着く砂埃りとをいっしょに拭い去った一昨日の事を思うと、まるで去年のような心持ちがする。それほどきのうから寒くなった。今夜は一層である。冴返るなどと云う時節でもないに馬鹿馬鹿しいと外套の襟を立て・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・五寸の円の内部に獰悪なる夜叉の顔を辛うじて残して、額際から顔の左右を残なく填めて自然に円の輪廓を形ちづくっているのはこの毛髪の蛇、蛇の毛髪である。遠き昔しのゴーゴンとはこれであろうかと思わるる位だ。ゴーゴンを見る者は石に化すとは当時の諺であ・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・今度は八つか九つ位の女の子の顔で眼は全く下向いて居る。額際の髪にはゴムの長い櫛をはめて髪を押さえて居る。四たび変って鬼の顔が出た。この顔は先日京都から送ってもろうた牛祭の鬼の面に似て居る。かようにして順々に変って行く時間が非常に早くかつその・・・ 正岡子規 「ランプの影」
・・・ お君は、額際まで夜着を引きあげた黒い中で、自分が出されて国に戻った時の事を、まざまざと想って居た。 狭い村中の評判になって、「お君はんは病気で戻らはったてなあ、 どうおしたのやろ。 病気や云うても何の病気やか知れん・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 自働電話を出て、少し行った時、私は俄に額際から汗の滲み出すような気持になり、殆ど駈けて、今出て来た自働電話の箱へ戻り、そのままとびこんだ。人は入っていなかった。だが、もうそこの棚には、私の大切な銀時計がない。私は暫くその中に立ったまま・・・ 宮本百合子 「時計」
・・・ が、そう云い終ると同時に、彼の艶のない白っぽい眉毛の生えた額際を我にもあらず薄赧くした。たった一間しかない住居のこと、彼の衣嚢にある一枚の十円札のことなどが、瞬間彼の頭を掠めたのであった。 彼が赧くなると、マダム・ブーキンも一寸上・・・ 宮本百合子 「街」
・・・簡単に言えば、この男には餓鬼大将と云う表情がある。額際から顱頂へ掛けて、少し長めに刈った髪を真っ直に背後へ向けて掻き上げたのが、日本画にかく野猪の毛のように逆立っている。細い目のちょいと下がった目尻に、嘲笑的な微笑を湛えて、幅広く広げた口を・・・ 森鴎外 「かのように」
出典:青空文庫